第72話 銅級冒険者レントと沼の中
あまり人が好んで来ることの少ない場所とは言え、ここにしか生息していない植物や生き物も多数いる以上、ある程度は人が入れるように整備されているところもある。
たとえば、沼沢地帯であるために向こう岸に渡りたいが大きな沼が断絶として存在している場合には、橋が架かっていたりとかもする。
まぁ、当たり前と言えば当たり前だろう。
なにせ、俺のように毒については完全に無効である人間など、まずいない。
毒々しい色に染まった沼の中を泳いで渡りたいと考える者が皆無である以上、橋はどうしても必要だろう。
俺だって、浸からないで済むのなら浸かりたくない。
つまり、橋があるなら普通に利用するわけだ。
ただ、一つ問題があるとすれば。
――ギシギシ。
と、一歩進むごとにあまり聞きたくない音が聞こえることだろうか。
橋の材質は場所によっていろいろだが、そのほとんどが木造だ。
作りやすいと言うのがその素材が選ばれる最大の理由だろうが、そもそもこんなところまで金属を持ってきて橋にすることは難しいだろう。
冒険者を何人も雇って、かなり長い期間かけないとそんなことはできないからな。
必然、しょぼい作りの木造の橋が多くなる。
木々なら一応、そこら中に生えているし、こんな毒沼だらけの場所でも元気に生きている植物たちなのだ。
沼に橋としてかけても、普通の木を使うよりかはずっと耐えてくれる。
しかし、そうはいっても所詮は木造。
しかも手抜きという訳ではないが、簡易的な作りのものに過ぎない。
劣化は結構な速度で進み、そしていずれは沼に飲み込まれていく。
俺の今渡っている橋も、まさにそんな状況で……。
――バキッ!
と音がした時点で、俺もなんとなく覚悟した。
いや、覚悟が足りなかったので、つい急いで走ってしまったのだ。
それは冷静に考えれば間違った選択だっただろう。
橋に大きな負担をかけ、薄っぺらい床板を踏み抜いてしまった。
そもそも屍鬼として人間とはかけ離れた身体能力を得るに至っているのだ。
思い切り足に力を入れて踏み切れば、そうなるのは目に見えていたとも言える。
つまり、俺の足は見事に木造橋の床板に嵌り、そしてそんな俺の目に見えたのは、橋が中心から見事に、くの字に曲がって折れて沈んでいく様だった。
さらに言うと、エーデルが俺の肩から離れ、沈みかけた橋を急いで渡り、そして対岸に辿り着く様子も。
――裏切りやがったな。
そう思ったが、まぁ、あの黒鼠の毒に対する耐性は未だ明らかでない。
毒沼などに沈んだら俺と違ってなにか問題があるかもしれないし、許すことにした。
そうしてごぼごぼと沼の中へと橋と共に沈んでいった俺なのだが、まるきり息は苦しくなく、何の問題もなかった。
不死者だから、ということなのか、息は吸わずとも特に構わないらしい。
一応地上にいるときは呼吸はしているんだが……。
なにせ、呼吸しないというのは怪しい。
まぁ、人間だったころの癖なのか、意識しなくても普通に息はしてしまうのだが。
ただ、沼の中に入っても特に何も問題ないと言うのは改めてこの体の便利さを感じる。
見た目の不気味さにさえ目をつぶれば、もう一生このまんまでもいいんじゃないかなという気すらしてくる。
結婚とかは出来なさそうだが、俺はその前に神銀級冒険者になると言う夢がある。
もともとする気もなく出来る気もしなかったものなので別に構わないだろう。
ちょっとこういうときに考えてしまう辺り、もしかしたら心の底では諦めたくはないのかもしれないが。
《タラスクの沼》にある毒沼の中は、まるで生き物が生息できなさそうに思える。
なにせ、通常の生き物が浸かれば即座に肌の色が紫色に染まって五分後には絶命しているようなところもあるくらいなのだ。
しかし、俺が落ちたこの沼の中には、しっかりと生き物が息づいているようだった。
とても美しい光景だ……とはとてもではないが思えないけど。
人の背丈ほどありそうな魚らしき物体が、俺の方に大口を開けて迫ってくるのだから、それも当然の話だろう。
しかも一匹ではない。
十匹近くいる。
あれに食われたとしても俺は死にはしないだろうし、そもそも俺の体に喰いでがあるとは思えないから、しばらく黙って耐えていれば去っていくのかもしれないが、俺に未だにある程度残されている人としての感覚は、あんなものに喰われるのは勘弁だと叫んでいた。
俺は腰の鞘から剣を抜き、迫る大魚たちに構える。
幸い、沈み切って地面に足がついている。
戦うことは出来そうだった。
片方の足が木造橋に引っかかっているため、浮き上がらないように固定も出来ている。
縦横無尽に泳ぎ回ってばっさばっさと切り捨てる、という訳にはいかなそうだが、ここで待ち伏せしつつ潰していく方が簡単そうだ。
事実、直後に突っ込んできた大魚については、剣の一撃で首を落として倒すことが出来た。
水の中であるので剣がかなり重く感じるが、切れ味に問題はない。
もちろん、地上で振るっている時よりは遥かに落ちているが、魚の首くらいは気を多めに込める力技で何とかやれる。
ただ、それでも一度に四、五匹の大魚にまとめて来られると対処も厳しかった。
そもそも体を固定して戦ってしまっているので、全方向に注意を、という訳にはいかなかったのだ。
それに、水の中での機動力も段違いである。
向こうはそのために特化した体を持っているわけだから当然なのだが、他にやりようがあったのに、もう少し考えればよかった、とその瞬間思った。
しかし、そんな俺の反省など、大魚たちにとってはどうでもいいことらしく、それぞれが俺の体の一部に噛み付いてきた。
正面三方から来た大魚についてはまとめて横薙ぎにして何とかなった。
しかし、後ろから来た二匹については流石にどうにもならず、足を噛み付かれ、そしてそのまま水の中を引きまわされることになった。
どうにか外そうと暴れたり、剣をぶんぶん振ってみたのだが、今一うまくいかない。
万事休すか……とまでは思わなかったが、早く外さないと足がとれる、というくらいの危機感は感じた。
自分の命に対する心配がそれほどないのは、自らの実力に関する信頼という訳ではなく、この不死者の体の頑丈過ぎるのがよくないと思う。
首を飛ばされようとも死なない気がする、そしておそらくそれで正しい、というこの体は、俺から危機感を奪いつつある。
よくないな……これは改めなければ、と俺は強く思い、今度こそ振り払おうと真剣に暴れることにした。
気による強化を一旦やめ、体に聖気を込める。
こちらの方が強化率が高いからだ。
魔気融合術の方がさらに強化率が高いのだが、これはまだもろ刃の剣と言うか、修行が足りないのでちょっとこういう土壇場で使うのは怖い。
どうしても、と言う場合でないと、ピンチに使うと言うこともないだろう。
聖気による強化は、やはり気によるそれよりも強く、水の中での挙動がかなり楽になる。
足にも力が入る様になり、大魚の口から自分の足を引き抜こうと力を入れる。
すると、片方の足については外れたが、もう片方については意地でも離そうとしてくれない。
こんな鶏ガラみたいな足がそんなにうまいのか?
と思わないでもないが、こんなひどい環境に住んでいるのだ。
一旦口にした食べ物らしきものは意地でも離さない本能のようなものがあるのかもしれなかった。
しかし、そんなことでは困る。
俺は、こんな毒沼の底で朽ちていくつもりなどないのだから。
幸い、片方の足が自由になったお陰で、体の向きは割と自由に変えられるようになった。
俺は体を捻り、大魚の方を向くと、剣を振り上げる。
今なら問題なく切り払える。
そう思った瞬間、大魚の方も何か察したらしい。
泳ぐ速度を急に上げて、上昇し始め、そして俺をそのままの勢いのまま、水の外へとぶん投げてくれた。
「……ぐふっ!」
そのまま、俺は渡ろうとしていた向こう岸の地面に叩きつけられ、情けない声が口からである。
びしょぬれで、ぽたぽたと水が滴っている。
ローブの方は、やはり高性能らしく、あれだけ水に浸かっていたのにもう乾いている。
最初から濡れていなかったのだろうか?
分からないな……。
それから、きょろきょろと周囲を見回すと、俺を置き去りにしてくれた眷属の姿が目に入った。
「……おまえ……なんだ、それは?」
俺がそう尋ねたのは、黒鼠エーデルが何か妙に顔の形が変形していたからだ。
引っ捕まえて、無理やり口を開けてみれば、ほっぺたに山と入った木の実の姿が目に入る。
つまり、主を放置して、自分は嗜好品となる食料を確保していたというわけだ。
こいつは俺よりも血液に依存する部分が少ないのかもしれない。
それにしても……なんというか。
忠誠心がないんだよな。
吸血鬼の眷属ってみんなこんなものなのだろうか?
誰かに聞きたいものだ、と思った今日だった。
 




