第70話 銅級冒険者レントと名前
「気をつけていってくるんだぞ」
家を出る前にロレーヌがそう言った。
言われて、そう言えば、今日の朝食に出たあの煮込みは、この地方で先々の幸運を願うという意味も含まれているものだったか、というのを思い出す。
だから珍しく早起きをして作ってくれたのかもしれない。
《タラスクの沼》は、それだけ危険なところだ。
「……たいしたしんぱいは、いらないさ。きけんなら、おれはすぐにげるからな……」
「龍に一度食われておいてその台詞は信用ならんぞ……ま、それについてはそもそも運が悪すぎたんだろうがな。あぁ、それと、そっちの鼠もな……なぁ、ふと思ったんだが、名前とかつけなくていいのか?」
ロレーヌが俺の眷属となった小鼠に手を伸ばしながら、そう呟く。
言われてみてはじめて意識したが、たしかに名前は必要だなと思う。
考えていなかったのは、魔物であるため、ペットのように扱う感覚が希薄だったからかもしれない。
ずっと小鼠と呼ぶのも他のものと混同して面倒な気もするし、ちょうどいいから今付けるか。
「……くろいから、くろ、でいいんじゃないか?」
適当に思いついた名前を言うと、ロレーヌは顔をしかめる。
「もう少しひねったらどうなんだ? いくらなんでも……」
「そういわれてもな……」
長い間、自分の夢だけを追って冒険者稼業を続けてきた俺だ。
当然、子供などいるはずもなく、人に名前を付けたことなどあるはずがなかった。
小さいころも特にペットなど飼ってはいなかったし……。
「仕方がないな。では私が付けてやろう……そうだな、エーデルというのはどうだ?」
エーデル。
まぁ、別に全然それで構わないが……。
「どこから。おもいついたんだ?」
気になって俺が尋ねると、ロレーヌは答えた。
「その小鼠は他の小鼠をまるで王か貴族のように従えていたのだろう? だから、古代語で“高貴なる者”を意味するエーデルがいいと思ったのだが……」
「こうきなるもの……」
貴族と言うよりかは親分という感じで、高貴と言うよりは威張る虚飾の王という雰囲気だったが……。
そう考えると、肩に乗った小鼠からは、心外な!という意思が伝わってくる。
違うのだろうか?
別に間違っていない気がするが……まぁいいか。
ロレーヌは続ける。
「他にもその体型から、ふとっちょを意味するモッペルとか、大食いを意味するフレッサーなどでもいいが」
ほんの数秒で随分と色々考えたものだな、と思うが由来があまりにも食欲に寄りすぎている。
先ほど、俺が作ってもらった血液入りの煮込みを小鼠にもやった結果、目にもとまらぬ速さでがつがつと食べていたことからロレーヌの印象に残ってしまったのかもしれない。
俺としてはどんな名前でも困らないので、どれでもいいなと思って聞いていたのだが、小鼠からは、最初のにしろという強烈な意思が伝わってくる。
俺の眷属の癖に自己主張が強すぎるんじゃないか?
もうモッペルで……と一瞬思わないでもなかったが、まぁ、そこまで意地悪な人間でもないのだ。
いや、人間ではないのだが。
俺は言う。
「……えーでる、でいこう。ほかのはさすがにな」
俺の言葉にロレーヌは少し残念そうにしながら、
「そうか? モッペルやフレッサーも悪くはないと思うのだがな……」
と言う。
意外と気に入っていたのかもしれない。
しかし、俺は、
「ほんにん……ほんねずみ? が、えーでる、がいいといってるからな。こいつのいしが、ゆうせんだろう」
「あぁ……そう言えば、お前とその鼠は簡単な意思疎通は言葉にしなくても出来るんだったな。なるほど、お前はエーデルが気に入ったわけだ。そういうことなら仕方あるまい。今日からお前はエーデルだ。名付け親は私だからな? 忘れるんじゃないぞ」
ロレーヌはそう言って、エーデルの頭を撫でる。
それから、俺は改めてロレーヌに、行ってくるといい、家を出たのだった。
◇◆◇◆◇
「……おい、ついたぞ」
御者のそんな声と共に、馬車が止まったのを認識し、俺は馬車を降りる。
肩にはエーデルを乗せた状態でだ。
俺が降りて、目的地をなんとなく見つめていると、御者から声がかかる。
「……ここからそこを下って少し歩けば《タラスクの沼》だが……大丈夫か? あそこはソロで挑むようなところじゃねぇぞ?」
それは心配げな台詞で、確かにその言葉は正しい。
俺も、しっかりと人間だった時なら、わざわざ一人でこんなところを探索しようなどとはあまり考えなかったことだろう。
止むに止まれぬ事情があったとしても、ソロはやめておいて、何人か知り合いの冒険者を誘って臨時パーティでも作ったはずだ。
しかし、今回、俺はそれをしていない。
理由はいくつかあるが……とにかく、
「べつに、たらすくとたたかうつもりはないんだ。ちょっといって、かえってくるつもりで……だから、しんぱいは、いらない」
そう言った。
男はそれでも心配げな表情を崩さなかったが、しかしこれ以上言っても無駄だ、と思ったのだろう。
呆れたような雰囲気で、
「……ま、冒険者ってやつはみんなそんなもんか。何があっても自己責任の世界だ……ただな、命は大事にしろよ? やばいときは無理しないで戻って来い」
と優しい台詞をかけてくれる。
ここまで言ってくれるのは随分と珍しいことだ。
俺のそんな考えに気づいたのか、男は、
「最近、新人が迷宮で行方不明になっているからな……昨日会った奴が今日いないってのは寂しいもんだ……だから、な。ま、ちょっと感傷的になっちまったのかもしれねぇ。いろいろ言ったが、頑張れ。俺はまた、夕方くらいにここに来るから、そのときまでにはここにいろよ。流石にこれ以上《タラスクの沼》には近づけないんでな。じゃあ、また」
そう言って馬に鞭を入れ、走り去っていく。
《タラスクの沼》に来る冒険者は少ない。
馬車も日に二度、朝と夕方に通るだけだ。
それを逃すとこの周辺で野宿する羽目になるので、時間については気にしておこう、と思った俺だった。
それから、俺は御者の男の言った通り、坂道を下っていった。
◇◆◇◆◇
《タラスクの沼》。
それは、一般的に都市マルトより、馬車で数時間、北東に進んだところにある沼沢地帯のことを指す。
本当は別の正式名称があるようだが、そちらの方は誰も呼ばずに、皆、《タラスクの沼》と呼ぶのは、そこに住む存在があまりにも強大で有名だからだろう。
タラスク、と呼ばれるそれは、亜竜族の一種であり、亀のような甲羅と三対六本の足と強力な毒を持つ、恐るべき魔物だ。
甲羅や鱗、それに毒を生産する毒腺は、武具の素材として非常に珍重されているが、討伐には銀級でも上位クラスの冒険者が必要であるとされており、しかも確実にというのであれば複数いなければ厳しいと言われる。
つまり、銅級冒険者でしかない俺にとっては、絶対に遭遇してはならない魔物だ、という訳だ。
遭えば即死……とまでは言わないまでも、相当の窮地に陥るだろうことは確実で、それがゆえ、俺は基本的にここの探索は慎重に行い、タラスクとの遭遇を出来る限り避ける方向で頑張るつもりでいる。
もちろん、タラスクの他にも数多くの魔物が生息しているところなので、そう言った存在にも気を付けなければならず、ここの攻略は困難を極める。
それで報酬は銅貨一枚なのだから、まったく割には合わない。
が、たまにはこういう仕事もいいだろう。
うまくやればここに生息する魔物や、植物など、高く売れる素材が手に入る可能性もある。
あまり冒険者も好んで来るところではないので、そういったものの需要は比較的ある。
それに、いざとなったら逃げかえってもいいだろう。
褒められたことではないが、死ぬよりはずっといいしな。
ちょうどここに良い囮もいることだし……と肩を見ると、エーデルから威嚇された。
そんなものにはならないということらしい。
お前、俺の眷族だろ、主のために命を張ってくれよ、と思ったのだが、そこまでの忠誠心は期待できないらしい。
……ま、いいか。
そう考えて、俺は《タラスクの沼》に足を踏み入れる。
タラスクに遭わないといいなぁ、と思いながら。




