第594話 あるケルピーライダーの憂鬱(前)
支配者と言えば誰か?
そう人が問われて口に出す答えは千差万別だ。
単純な者は国王だ、と答えるだろう。
欲に満ちた者は金だと答える。
知識豊富な者は世の理だと答えるかも知れない。
宗教者は神だと答え、哲学者は自らの内にこそそれを求めるべきだと答える。
現実をよく知る者は妻だと答え、何者をも信じぬ者はそんな者はいないと言うことだろう。
その全員が自ら口にした者の前で膝を折るかと言われれば別である。
しかし、実際には、目の前にすればそのうちのほとんどが膝を折らざるを得ない者がいることを、誰もがよく知っている。
それこそが世の支配者。
この世界の主。
つまりそれは……魔王。
この世界に四体しかいないと言われる、魔に属する者の頂点。
その一挙手一投足だけで、この世の理すらも曲げられる超越者。
かの者たちの前ではどんな大国を治める王ですらも恐れて眠ることが出来ない。
彼らの逸話は枚挙にいとまがなく、村を、町を、国を滅ぼし、種族を消し去り、神霊達をすら相手にして、今もなお存在し続けている。
そんなものにまともな人間が対抗できるだろうか?
不可能である。
だが、それでも……。
そのような存在に、あえて不服を主張する者もいるのだ。
だからこそ、この世界には国があり、多種多様な種族があり、そして魔王は一体ではなく四体いる……。
その事実について疑問を抱き、本人に尋ねた者の末路を思い出し、蜥蜴人であるクリックは、ケルピーの背の上で震えた。
いつ自分が同様の目に遭うのか分からないからだ。
彼は今回、自らの主の命に従い、人族の都市であるルカリスの沖合に存在する《海神の娘達の迷宮》に向かっていた。
先日から何度もあの辺りを回り、人族の冒険者達を襲ってその持ち物を調べては海に投げ捨てているが、残念なことに全く目的のものを見つけることは出来なかった。
そもそも、本当に主の言うとおりの物が見つかるのか、すでにしてかなり疑問であり、しかしながらそれを本人に聞けばおそらく灰燼に帰すのだろうというかなり苦しい立場での仕事だった。
一応、自分と同様の氏族、蜥蜴人の中でも海での活動に定評のある海蛇人が騎手として操るためのケルピーを一隊分与えられ、隊長として働いてこいと言われたのでそれなりに期待されているのは間違いないとは思っている。
ただ、見つかるかどうか定かではないものを探せと言われて、いくら弱肉強食が社会の基礎にある魔物とは言っても、素直に分かりましたと言って延々と探し続けるのは精神的に厳しいものがあった。
それでも探さないというわけには行かず、成果の出ないまま、もう一月は経っている。
そろそろ上司が、そして更に上にいる主が……癇癪を起こして殺しに来ないとも限らず、そうなったときのことを想像してため息を吐くのが日課になっていた。
『……見つかったか?』
周囲で、ルカリスから《海神の娘達の迷宮》に向かう船を探し回らせていた部下に対してクリックがそう尋ねるが、三人いる部下のいずれもが浮かない顔で首を横に振った。
彼らのその表情は、自分のものと鏡写しであることを悟りつつも、もう帰ろうとは言えない身の上にクリックは空を見上げる。
『……そうか。最近では船もほとんど来なくなってしまったからな……仕方ないといえば仕方があるまい……』
残念そうにがっくりとそう言ったクリックだったが、部下の内の一人が、おずおずと言ったようすで手を上げ、
『……あの……』
と言った。
人族の言語も使えないわけではないが、口にしているのは蜥蜴人だけに通じる音域でもって形作られる言語だった。
それはこのだだっ広い海の上で、相当に距離が離れていてもはっきりと聞こえた。
特に海蛇人である自分たちのそれは他の種族よりも余計にそういった能力に長けており、だからこそこの任務を直々に与えられた。
クリックは部下の方に視線を向け、頷いて口を開くことを認める。
部下は言う。
『先日まで見た、大勢の冒険者が乗る定期船は見つかりませんでしたが、中型船を一隻だけ見かけました。私が近づく前に足早に去ってしまったので、乗員は確認できませんでしたので……ただ偵察に来ただけかも知れませんが……』
偵察。
それはつまり、クリック達がこの辺りを回り、船を襲っているためにそれを確認しに来たと言うことだろう。
一月もその行為を繰り返しているのだから、それくらいの警戒をするのはよく分かる。
クリックとて、自分たちの種族の縄張りを人族が荒らし回っていたらいずれそういう風にするのは当然だからだ。
ただ、冒険者を乗せて迷宮に下ろし、去って行った可能性もある。
そうだとすれば、自分たちの目的にも合致するだろう。
何せ、クリック達の目的はその冒険者達からあるものを奪うことなのだから。
正確に言うならもう一つ先の目的もあるが、そちらについてはそもそもそのあるものを奪わなければ話にならない。
『……しかし、中型船か。冒険者を乗せていたとしてもさほど大勢ではあるまい。定期船であれば二十人を超える人数が乗っていることもあるし、効率が良かったのだが……』
『確かにそれはそうですが、その定期船が来ないのですから……この際、その中型船の方についても狙ってみては? 夕方には来るでしょうし、殺すわけでもないのですし……』
本来、魔王の軍勢と人族というのは対立しているものであり、出会えば即座に殺し合いが始まるのが普通だ。
しかし、今回は目的が目的である。
いきなり殺したところで無意味だし、目的の品が手に入るまではより多くの冒険者に生き残っていてもらい、何度でも迷宮に潜ってもらった方がありがたかった。
そもそも、クリックたちは魔王の配下の中でも新参だった。
つい数年前まで、いわゆる亜人種の《竜人》として、静かに暮らしていたのだが、周囲の人族が人族に有害な亜人狩りを謳って襲いかかってきたため、身を守るために最も近くの魔王へと助けを求め、結果として魔王の配下、蜥蜴人の一氏族として仕えることになった。
当時の族長がクリックであり、だからこそこうしてたまに任務のために戦士の供出を求められる。
自らの氏族の者たちには非常に申し訳なく思うが、しかし当時は他にやりようがなかった。
今の主……魔王とて、かなり苛烈に思えるが、他の魔王と比べれば温厚であるし公平な人柄でもある。
人族とも強く対立しているわけでもなく、だからこそ、こうしてあまり人族を害しない方法によって目的を達成しようとする行動も許されている。
ただ、どこでキレるかはやはりわからないのだが……。
そう、ただそれが怖い。
クリック一人がどうにかなるのなら構わないが、氏族ごと滅ぼされてはたまったものではない。
そうできるだけの力が魔王にははっきりとあるのだから。
そこまで考えて、クリックはため息を再度吐き、それから部下の言葉に返答した。
『……そう、だな……夕方まで待ってみるか。なに、必要なものを持っていなかったら、調べた後、解放すればそれでいいのだからな……』
そして、その言葉に他の部下達も頷いたところで、
「……それは困るのでやめてもらいたいのですが」
と、クリックの耳元に声が響いた。