第593話 港湾都市と話し合い
――ジャボッ!
という音が耳に響き、液体の中に放り込まれた感覚がした。
普通なら焦りそうなシチュエーションだが、俺はむしろ安心していた。
やっと戻ったみたいだ、と。
そもそも、水の中で混乱するのはそれがあくまで人間であり、呼吸が必要な存在だからだ。
このままでは死ぬ、という危機感が焦らせるのであり、どうにかしてそこから抜け出さなければならぬと様々な手段を模索させる。
けれど俺はどうだ。
呼吸など不要だし、その気になればおそらく一日中でも水の中で瞑想し続けられる。
だからまるで焦ることなく、冷静に自分の位置を確認することが出来た。
周囲を見るに、やはり、さっきの場所に他ならないことを理解する。
これでまた知らない場所に放り出されていたらそれこそ焦っていただろうが……。
しかし大分時間が経ってしまったな。
カピタン達も心配しているだろう。
もう俺のことは死んだと思って諦めた、ということも普通のパーティーならあるだろうが、カピタンは俺がそうそう死なない存在であることを知っている。
少しくらいなら待っていてくれるはずだ。
ともあれ、とにかく水の上に上がらなければ……。
そう思って、どちらが上かを確認し、光が差し込む方へと俺は向かう。
さほど遠くない。
ゆっくりと、しかし確実に泳いでいき、上に上がる。
すると、水面から何かが飛び込んでくる。
敵だろうか、と思ったが、すぐに違うことに気づいた。
それは手だった。
見覚えのあるものだ。
俺はそれに向かって手を伸ばし……掴んだ。
体が引き上げられ……俺は水面の上に出た。
俺と一緒に引き出された水がばしゃり、と音を立てた。
完全にずぶ濡れだが、あの女から進呈されたこのコートは速乾性があるのでこのくらいならすぐに乾く。
仮面も金属のようなもので出来ているので錆びそうだが、どれだけ水につかっていようが全く錆など浮かばず、ただ不気味な骸骨仮面であり続けているだけだ。
まぁ、腐食するならそれを利用してぶっ壊す、なんてことも出来るだろうからな。
どうやっても外せないように、壊すことも出来ないようになっているのだろう。
「……レント! 無事か」
そんな益体もないことを考えていると、そんな声が俺にかかる。
カピタンの声だ。
もちろん、俺を引き上げてくれたのも彼の手だった。
俺は顔を上げ、彼に言う。
「あぁ、なんとかな……というか、はぐれて悪かった。大分待たせただろう?」
「それほどでもない。二十分くらいしか経っていないからな……だが、急に姿が見えなくなったから驚いたぞ。水の中にも潜って探したが、どこにも見当たらなかったし……どこか別の通路が海中にあって、何らかの理由でそちらに向かった、とかそういう可能性も考えていたくらいだ」
「二十分? ……意外に短かったな」
それは大体、あの女と話していた時間くらいだろう。
幻覚……というか、あの女が言った迷宮の記憶を見ていた時間はもっと長かった。
「なんだ……何かあったのか?」
俺の反応に、カピタンは何かを察したらしい。
俺は言う。
「あぁ……なんというか、色々な。まず聞きたいんだが……カピタンは何か見なかったか?」
あの女が言っていた。
俺と同じ幻覚を、他の者たちが見ている可能性がある、と。
これにカピタンは目を見開いて、
「……いや、俺は見ていない」
と答えたが、言い方が気になったので俺は尋ねる。
「俺は?」
「あぁ……ディエゴがな。さっき、一瞬気を失った。そのときに妙な幻覚を見たと言っていた。多分、自分の精神的な問題だと思うと言っていたが……どうも違うようだな?」
ディエゴが、あれを見た。
なるほど、という気がした。
他の者たちはカピタンの言葉からして、見ていないのだろう。
何故か。
考えられる理由はそれほど多くない。
ただ、あの幻覚の内容からして予想するに、あれがディエゴに近しい者の過去の姿だからだろう、ということは予想できる。
この迷宮は歴史が長い。
ルカリスが出来る前からあるのだ。
そしてだからこそ、訪れてきた者は数え切れないほどいる。
迷宮に蓄えられている記憶も、同様だろう。
にもかかわらず、あれが見えたというのは……ディエゴがいたから、と考えるべきではないだろうか。
迷宮の仕組みなんて俺には分からないが、今ある材料を総合して考えてみるに、それが自然だ。
出来ることならあの女にもう一度会って尋ねたいところだが……そうそう会える存在ではないことは分かっている。
またいつか会えることがあれば、今度こそまともに色々質問してみたいところだ……。
ともあれ、今すべきことは……。
「……ディエゴにも話が聞きたいな。皆は?」
今ここにいるのは、カピタンだけだ。
ディエゴとニーズ達はいない。
カピタンは答える。
「今、少し先の様子を見に行っている。ここはいわゆる安全地帯なんだが、何にもないところだからな。時間も限られているし、ニーズ達にはこの迷宮がどんな感じか、把握してもらった方がいいと思った」
「大丈夫なのか?」
「ディエゴがいるから問題ないだろう。そもそも、この辺りはまだ、さほど強力な魔物は出現しないからな。出ても小魚怪人程度だ。ニーズ達だけなら五匹くらいに囲まれればもう詰みかもしれんが、ディエゴの腕なら十匹いようと問題ない。そんなに一気に出ることもまずないしな」
カピタンの中ではディエゴはかなり評価が高いようだ。
まぁ、俺も似たような感覚だが。
最初に会ったときに見た動きから、ある程度以上の力を持っていることは分かっている。
もちろん、手の内の全てを見せているわけではないのは分かっているが、最低限、それくらいは出来るだろうと言うことは分かる。
さらにカピタンは戦いを直接見ずとも、身のこなしを見れば同様のことが分かるのだろう。
達人というのはやっぱり違うな……俺はそこまでのことは出来ない。
見誤ることもそれなりに多いしな。
「それならいいか……すぐに戻ってくるのか? それとも追いかけた方がいいかな?」
「すぐに戻るはずだ。あまり遠出はしないように言ってあるからな……お前もきっと、戻ってくるはずだと信じていたことだし」
色々な可能性は考えていたようだが、それでも信じて待ってくれていたらしい。
ありがたいことだ。
「済まなかったな……」
「いや。構わない……だが、本当に何があったんだ? お前もさっき言っていた幻覚を見ただけだったら、ディエゴがそうだったように、別に姿を消さなくても良かったわけだしな……だがお前は……一体どこに消えていた?」
「俺もそれははっきりとは分からないんだが……」
だが、それでも大まかなことをカピタンに語った。
あの女のことを含めてだ。彼に隠すべきことは少ない。
いや、まずないと言っても良いだろう。
カピタンはそれを聞いて、
「……奇妙だが、敵ではない、強大な力を持った女、か……。うん、考えるだけ無駄そうだな」
と、身も蓋もないことを言った。
「確かにそうかもしれないが……」
「森でも同じだ。たまに化け物みたいな魔物を奥地で見かけることがある。だがそういうものは得てして、小さな人などに興味を示さない。その女も同じだ。もし興味を示されたら……もうそれは諦めるしかない。まぁ、実際にそうなったら戦うだろうが、無理なものは無理だしな。聞くに、その女も似たようなものだろう?」
「……まぁ、そうだな」
何も適当に流したわけではなく、猟師として身についた、強大なもの、人にはままならないものに対する態度のゆえの台詞だったらしい。
俺も似たような感覚でいたし、しっくりくる話である。
「じゃあ、当面は気にしない方向で行くか……まずは迷宮探索だな」
俺がそう言うと、カピタンも頷いて、
「あぁ。結構話し込んだし、もうそろそろディエゴ達も戻ってくるはずだ……」
とそう言ったところで、俺たちは体中に怖気を覚えた。
顔を見合わせ、
「……なんだ!?」
「……これは……!?」
二人してそんな言葉を口にしていた。
怖気の原因は、遙か上の方から感じる。
そして次の瞬間、強大な魔力と迷宮まで届く小刻みな揺れが襲ってきた。




