第592話 港湾都市と奇妙な再会
……。
…………?
戻った、か?
視界が真っ白に染まった後、目の裏に感じた強烈な痛み、それが今は大分引いている。
周囲の景色も……暗いが、一応見える。
いや……暗いのはおかしくないか?
俺があの海中から上ろうとしていた水上は、確かに明るさに満ちていたのだ。
光源が何だったのかは分からないが、確かに光があった。
それなのにここにはそういうものがない。
周囲が見えるのは……俺の目の特殊性によるものだ。
普通の人間でもかろうじて見えるだろう、というくらいの明るさ。
しかも周囲にカピタン達の姿はない。
何故……?
「……本当に、縁がありますね、貴方には」
後ろから唐突に声がかけられた。
恐ろしいのは、背後に何者かがいることではない。
声をかけられたとはっきり認識しているというのに、何の気配も感じないことだ。
恐る恐る、俺は後ろを振り返る。
するとそこにいたのは……。
「お久しぶりですね。屍鬼の人。いえ、今は……違うようですが。なるほど、そうなりましたか……これは珍しい。吸血鬼にはならなかったのですね。しかし、同じく人食鬼系統ではあります……。むしろ、経緯を考えれば納得が行くものです。ですが、よく吸血衝動を抑えられましたね?」
俺をまるで奇妙なものを見るような目で見つめながら、独り言のようにそんなことを呟く女がいた。
これだけなら、何か変な女がいるな、で済むことかも知れないが、俺はこいつに会ったことがある。
というか、もっとはっきり言うなら恩人に近い。
俺の持っているローブ、それに《アカシアの地図》の元の持ち主なのだから。
俺は言う。
「……あんたは、あのときの。どうして《海神の娘達の迷宮》に……?」
今俺の目の前にいる女、白髪で、水色の瞳を持った、優しげな雰囲気を持つのに恐ろしいほどの圧力を吹き出している存在は、確か《水月の迷宮》の未踏破区域にいたはずだ。
そこで俺はこの女に燃やし尽くされかけ、しかし何故か気まぐれで助けられ、しかも他では滅多に手に入らないだろう特別な魔道具すらも与えられ、帰された。
あのときの狐につままれたような、しかし証拠は確かにこの手に残っているという奇妙な感覚は今でもありありと思い出せる。
まさか、もう一度出会えるとは思ってもみなかったが……なぜ、こんなところに。
まずはそれが純粋な疑問だった。
これに女は、
「私もこう見えて暇ではないのでそれなりに忙しく飛び回っているのです。今回ここで出会ったのは、偶然……というとあまりにも出来すぎていますね。きっと何かが導いた必然なのでしょう。ただ、本当は声をかけるつもりはありませんでした。以前、色々と差し上げはしましたが、あれらはあくまでも謝罪のためのもの。基本的に私としましては、貴方には貴方自身の力で頑張ってもらいたいものですから」
何か、期待されているらしい。
どんな期待なのか全く分からない、ふわふわとしたものだが……やはり、敵というわけではなさそうだ、という感じはする。
だからといって油断して良いのかと言えばそんなこともないだろうが、けれどこの女の前では油断しようがすまいが俺程度の存在にとっては同じことだろうと思うのだ。
以前会ったとき、俺は屍鬼だった。
あの頃と比べれば、今は強くなったように思う。
けれど、今でもこの女に感じる圧力の大きさ、自分がかかっていったらどうなるか、ということを少し想像したときに頭に思い浮かぶイメージは何も変わらない。
おそらくだが、俺はこの女の指一本で……いや、指すら動かさずに存在ごと消滅させられてしまうのではないだろうか?
そんな気がするくらいだ。
それは、《水月の迷宮》で《龍》に出会ったときに感じたものと同じ。
逆立ちしたって敵うことがない相手に対する、本能的な恐怖と、諦めだった。
要は、何をしても無駄だということだ。
逆に言えば、だからこそある意味図太くいられる。
俺が何をしようとさして気にも留めないだろうと分かるからだ。
「応援ありがとう、と言いたいところだが……そういうことならどうして話しかけたんだ? 俺もこう見えてそこそこ忙しくしてるんだぞ。これから知り合いと迷宮探索するところだったんだ」
「分かっています。ただ、迷宮に引き込まれかけていたのが見えたので。あのまま放っておいたら、この迷宮と一体化……というか、ここから出られなくなっていましたよ」
「えっ……」
「迷宮というものをよくご存じではないのですね……なんて、当然でしょうけれど。今ではもう知る者など数えるほどしかいないのですから」
「あんたは知っていると?」
「一応は。そしてその見識からすると、貴方は危険でした。何か見ましたでしょう?」
「……あぁ。誰か、男女が喋っているだけの様子だったが……」
「それは迷宮の記憶ですよ。記録と言ってもいいですが、私もこの迷宮にそこまで詳しいわけではないのでどちらとも断言できませんが。ともあれ、昔、この迷宮で起こったことが貴方の頭に流れ込んだわけです。そういったものは大抵、迷宮核に保存されていまして……あぁ、ご存じですか、迷宮核」
「……それこそ一応は……」
「となれば話が早いですね。迷宮核は迷宮全体と繋がる、ようは水源のようなものです。それは迷宮のものすべてと繋がっていて……これは迷宮内部の魔物も同様です。外部から魔物が侵入してきた場合、迷宮核はそれと繋がるべく糸を伸ばすわけです。貴方はその糸に、もう少しで絡め取られそうでした。そしてその際に、迷宮核に宿る……記憶の一つを覗いたのです」
「つまり……あれか。助けてくれたのか?」
「端的に言えば。しかし、まだ糸は繋がっているので、あまりここに長居することはおすすめしませんよ。探索されるつもりでしたら、一日に一度は必ず外に出た方がいいでしょうね。でなければいずれまた同じことになります。それに……そのままの状態でもまた何か見る可能性はあります」
「おい、どうすりゃいいんだ……」
迷宮探索しなければならないのに、やるとまたどうにかなるって。
これに女は言う。
「意思を強く持つことですね。同じような光景を見ても、振り切れば取り込まれることはありません」
「本当か……?」
だとしたらさほど難しくないような。
それに、ふと俺は思った。
「……もしも外から迷宮に魔物が入ったら取り込まれる、というのなら、どうして《水月の迷宮》や《新月の迷宮》は平気だったんだ? それに他の迷宮にもいくつか潜ったぞ」
「それはこの迷宮が……おっと、そろそろ時間のようですね。貴方とお話ししている場合ではなくなりそうです。ちなみにですが、さっきの幻は貴方の近くにいた人にも見えている可能性があります。色々とうまく説明することですね……そうそう、もう一つ、ついでに助言するとすれば……」
「すれば……?」
「ここには、ありますよ。貴方しか……貴方がいなければ立ち入れないところが、ね。では、本当に時間切れのようです。ごきげんよう」
ふっと上を見た女がそう言った瞬間、景色がぐにゃりと曲がった。
「ちょっ……」
まだまだ色々と聞きたいことが。
そう言いたかったのに、見えるのは手を振る女が歪んでいく姿だけだ。
全てが視界の中心の渦に飲み込まれるようにして暗くなっていき……そして、俺の体はまたもや、妙な浮遊感の中に放り出された。