第591話 港湾都市と幻覚
完全な暗闇……。
何も見えない、これは気絶じゃない。
そうは思ったものの、何が出来るわけでもなかった。
手を伸ばそうにも、体を動かそうにも何故か感覚がない。
全くないわけでもないのだが、しかし、目の前に手を動かそうとしてもそこには決して何も現れなかった。
一体何が起こっている……?
首を傾げながらもしばらく藻掻いていると、ふっと、目の前の暗闇が色を少しずつ薄くしていき、灰色の、何か不可思議な光景を作り出した。
どこかの……遺跡?
石造りの建物……いや、ここは、俺が潜っている神殿に他ならない。
だが、どことなく不自然だ。
俺はそこまで記憶力に優れた方じゃないが、それにしたって大分、先ほどまで見ていたのと比べて様子が違うのだ。
どこが、と言われるとはっきりとは言えないが……なんとなく、今見ている景色の方が、綺麗というか……そう、さっきは崩落していたはずのところが、そうなっていなかったりするというか。
どういうことだ……?
分からない。
分からないが……視界は俺の意思に関係なく移っていく。
薄暗闇のようだった景色が、徐々に光を帯びて……明るくなっていく。
上に存在する、光の方へと近づいているからだろうか。
あちらは、水の上だろう。
ゆらゆらと揺れる、しかし太陽とは異なる光がそこからは差し込んでいる。
そして……視界が水の中から抜けた。
ざぱり、という音が残響のような、妙な響きで耳に聞こえた。
それから、誰かに引きずられていくようにずるずると視界がずれていった。
さらに、水の中から完全に上がると、突然、何者かの顔が目の前に出現した。
かなりの美少女だ。
それがもの凄く近くに来て……おい、これは口づけがされるのでは?
という距離まで顔が近づいた……のだが、なぜか残念ながら何の感触もしない。
全く、何も、一切の感覚が、俺には伝わらなかった。
こんなことがあっていいのだろうか、と思う反面、どこかで当然だろう、という気持ちもあった。
これはおそらくだが……俺の経験ではない。
直観的にそう感じたからだ。
実際、何度かその少女の行動は繰り返されると、しばらくして、ぷはっ、という誰かが息を思い切り吐く音が聞こえ、そしてその後に視界に水が吐き出されたのが映った。
さらに、その息は次の瞬間から、はぁ、はぁ、という荒い息に変わり、そしてぼんやりとした、色のあまりなかった視界が、徐々に光と色彩に満ち、はっきりとしたものへと変わっていった。
『……良かった。助かったのね』
少女の口からそんな声が聞こえた。
『……う、こ、ここは……』
俺の口から……いや、その辺りから、俺とは異なる男の声がした。
『知っているでしょう? 《海神の娘達の迷宮》よ。ここに潜ろうとして、《空気管》の期限を間違えて海中で窒息しかけてたところを、私が助けたの』
少女が責めるようにそう言った。
なるほど、確かにその言葉通りの状況だったとしたら、責めたくなる気持ちも分かる。 ディエゴも言っていたが、《空気管》には適切な使用期限があり、それをしっかりと見極めて使わないと海中で窒息死すると。
どの程度まで使えるのかは外見からは簡単に分からず、ディエゴのような専門の呪物屋が目利きしなければ正確なところは判別できないとも。
この……なんというか、俺が乗り移っている、らしい男は、それをやらなかったのかもしれない。
相当な危険行為だ。
『……本当か。しっかり鑑定してたつもりだったんだが……何本か並べておいたから、違う奴を持ってきちまったのかもしれねぇ……』
違った。
もっと酷い、ただのおっちょこちょいだ……。
少女もこれには呆れたらしく、
『随分な命知らずがいたものね……私がいなければ、貴方は窒息死した後、狼魚の餌になっていたでしょうね。大きなのが近づいてきていたわ……』
『そりゃ、随分と命拾いしたもんだ……あんたには礼を言っておく。出来れば何かあんたにやれるものがあればいいんだが……金もねぇし、モノもねぇ。どうしたもんか……』
『それでよくこんなところに来たわね』
『だからこそさ……ここで一攫千金、そんで手に入れた金で店を始めるのさ』
『……店? 貴方、冒険者じゃなくて商人なの?』
『どっちもさ。というか、冒険者の方は手段だな。金を稼ぐための……商人としての修行はみっちりした。だが、先立つものがなけりゃ何にも出来ねぇだろ。それも、ルカリスに店を持とうってんなら、手っ取り早いのは迷宮で魔道具や呪具を回収して売っぱらうことだ』
『商人ならそれを冒険者にやらせて、自分は転がす方に専念すればいいでしょうに』
『……それもそうなんだが、《海神の娘達の迷宮》に潜る冒険者は少なくてよ。大体、馴染みの呪物屋がすでにいて、俺が頼んでも中々いいのは回ってこねぇ。だったら自分でやった方が手っ取り早いんじゃねぇかってな……』
『本当に無謀ね……まぁ、いいわ。そういうことなら……貴方、私の手伝いをして』
『……あ?』
『見るからに、貴方、初めてここに潜ったんでしょう?』
『まぁ、そうだが……』
『でも、私はここをよく知っているのよ。ある程度の案内が出来る』
『先輩ってやつか……』
『そういうことになるかしら。だから一緒に探索をしてほしいの。一人だとちょっと大変なんじゃないかって最近感じてきたのよね……』
『なんだよ、俺にどうこう言うわりに、あんたも日は浅いみたいだな?』
『……まぁね。でもそんなことはどうでもいいの。それより、どう? 話に乗る?』
『つってもなぁ……俺はできるだけ沢山の魔道具・呪具を手に入れたい。だが、あんたとやっていくと半分になるだろう。それはな……』
『強突く張りの商人はいずれ身を滅ぼすわよ? ミーリの契約の話を知っているでしょう?』
『……また随分と古い話を持ってくるんだな。まぁ、知っているけどよ……』
それは、自分の欲を優先した商人が滅びる、まさにそういう話だった。
使い方さえ間違えなければ巨大な利益を生む道具を手に入れた男が、慢心の故に使い方を誤り、そして破滅するという。
ただ確かにかなり古い話で、最近の若者は使わない。
俺は知っているけどな。
ロレーヌの蔵書にはそう言った寓話やら諺やらが沢山載っているものがあるから。
『なら、少しくらいの損くらい引き受けなさいな』
『……へっ。分かったよ。じゃあ、しばらくの間、臨時パーティーを組むか。命を助けられた恩もそれで返せるな?』
『勿論よ。よろしくお願いするわ……私、マリアーナ。貴方は?』
『俺は、ラウルだ』
……ん?
どちらも聞き覚えがある名前……と思った瞬間、目の前の景色がガラスのように割れる。
そして思い切りどこかに引っ張られる感覚がし、視界は真っ白に染まった。