第575話 港湾都市と実験
「……どうだ?」
目の前にいる薄く無精ひげの生えた男に俺はそう尋ねる。
男は自分の体を注意深く確認し、何も問題が無いと感じたようで、
「……気分が良くなった。なんだか分からねぇが……まぁ、ありがとうよ」
そう言った。
その答えに俺はほっとする。
というのも、俺は先ほどこの男に言ったとおり、正しくこの男を実験体にしたからだ。
先ほど男に飲ませた薬湯……あれは俺が薬師の師匠たるガルブに習い、習得したハトハラー印の由緒正しい薬湯……ではあるのだが、一部レシピに変更を加えたものだ。
というのも、俺がかつてガルブに学んだ薬のレシピは通常薬であり、魔法薬はなかった。
それはガルブがそれを作れることを知らなかったというのもあるが、そもそも当時ガルブに薬師の技術を学んでいた俺に大した魔力が無かったからと言うのが大きい。
学んでも無駄なものを教えなかった、ということだ。
ただ、それはガルブが冷たいと言うことではない。
通常薬についてはそれこそ微に入り細にわたって教えてくれた。
魔力も気も大して持たない俺にとって、それがどれだけその後、重要なものになるのかを理解していたからだろう。
実際、ろくに力もなかった当時の俺が曲がりなりにも生き残って来れたのは、薬師として基本的な薬を作ることが出来たからだ。
そんな俺が学んだ薬湯に加えた変更とは、そこに力を込める、ということだ。
一般的にはこの技術は錬金術の中にあり、魔力を込めて、魔法薬とするというものだ。
ロレーヌが得意としており、またガルブについてもそうだろう。
しかし俺はまだ、その技術を習得していないし、レシピも知らない。
ただ、ロレーヌがそういったものを作るところはこの十年で何度も見ていて、なんとなくだが手順は知っていた。
要は、魔力でもって薬のもつ薬効を高める、ということなのだが、これが非常に難しい。
というのは、ある薬効を高めれば、反対に副作用も大きくなったりすることがざらだからだ。
だから、俺は魔法薬を作るというのはガルブにしっかり学んでからにしよう、と思っている。
ただ、そんな中、ふと思ったのが……俺には魔力だけでは無く、聖気もある、ということだ。
魔力を込めた薬……魔法薬を作れるのであれば、聖気を込めた薬……聖術薬、というべきものも作れるのでは無いか?
そんな思いつきだ。
もちろん、世にそんな名称のものは出回っていないのだが、ただ今まで存在しなかったということも考えにくい。
たとえば……聖水、というのはそういう技術によって作られているのでは無いだろうか。
うまくすれば、薬にも聖気を込められて、魔法薬のように通常薬よりもずっと効力の高い薬を作れるかも知れない……そしてそれはすでに存在しているのかも知れない。
そんなことを思った。
聖気であるから、人体に有害な効果も発生しにくいのではないかな、とも。
だが、そんなものを作ったとして、誰に使うという問題があった。
普通の人間にそんな実験体になれ、とは言えないしな……。
一応、何度か作ってみて、薬に聖気を込めることは出来る、というところまでは実証できていた。
そして、傷ついた小動物や魔物に使ってみて、十分に効果が見込める、というのも分かっていた。
だが人間にはどうかというのはまだ出来ていなかった。
そこで今回のこれだ。
非常に都合がよく……というと非人道的な気もするが、俺の命を奪おうとやってきたわけで、何をされたとしても文句は無いだろう。
そもそも、大体の安全性は確認出来ているわけで、死にはしないだろうという感覚もあった。
かくして実験……と相成ったわけだが、結果を見るに大成功と言って良いだろう。
俺の一撃によりおそらく内臓にまでダメージがいっていただろう男だったが、薬湯を飲んだ後から大分顔色もいい。
素直に聖気で治しても良かったが、体の深いところ……内臓のダメージについては俺も大分消耗するからな。
代替手段があるなら先に試しておきたかった。
どうしようもなければ普通に聖気で治してはいたけれども。
そんな俺の心境を知らない男は随分と体の調子が良くなったようで、
「……あんたもお人好しだな。俺は……あんたに襲いかかったんだぜ? それなのにわざわざ助けて、傷も治して……どういうつもりなんだ」
そんなことを言ってくる。
知らないうちにかなり危険そうな実験に体を提供させるような奴が果たしてお人好しなのかどうかは俺には分からないが、気づいていないことをわざわざ気づかせることもあるまい。 俺は男に言う。
「根っこまで腐ってるような奴なら素直に倒して官憲にでも突き出していただろうが、お前は違ったようだからな。先に目覚めた奴らも……まぁ、悪くなさそうな奴だったから、傷くらいは治してやろうって気分になった」
これは全くの嘘というわけでは無い。
男の子分か何かだと思っていた二人はこの男よりも先に目覚めていたが、話してみるとどうもこの男の愚行を止めようとしていたらしく、嘘を言っているようなわけでもなさそうだった。
まぁ、あんな成り行きになってしまったから引くに引けなくなってしまったというのも理解できる。
仮に俺がこの男にやられるようであれば、致命的なことになる前にどうにか止めるつもりでもあったらしい。
それでも問題ではあるが……まぁ、結果的に俺は無傷なわけだし、これからこの男も含めて色々やらせるつもりであるからそのことについては許すことにする。
「……へっ。根っこまで腐ってるかも知れないぜ。だからこそ、あんたから金を毟ろうとしたわけだしな」
「まぁ、それならそれでもいいんだけどな」
「あ?」
「その場合はその場合で使いようがあるってことさ」
「……どういう意味だ」
「お前、これから自分がどうなると思ってるんだ?」
言われて、男は考え込む。
それから、絞り出すように言った。
「……奴隷にされるか売られるかってとこか? 俺の体を治したのは……その方が高値で売れるから、って?」
「また随分悲観的だな……というか、アリアナは奴隷ありだったか」
ふと思って口にすると、ディエゴが補足するように言う。
「ありだな。まぁ、種類や用途が色々と分かれていて、制限はあるが、基本的には合法だ」
「なるほど。まぁ、そういうことならいずれ選択肢にあげてもいいが、とりあえずの予定は違う」
俺がそう言うと、男は首を傾げて、
「じゃあどうするつもりだよ?」
「簡単だよ……お前……というかお前達には、俺と一緒に迷宮に潜ってもらうつもりだ」
男は俺の言葉に、目を見開いた。