第496話 ヤーランの影と犬
「……まぁ、とりあえず中に行きましょうか」
孤児院へ入っていった子供たちを見送ってしばらく、エルザが俺たちにそう言う。
ここで、おそらくは孤児院の責任者である僧侶を待つよりも、自分たちから行った方が早いだろう、という判断だろう。
全くの初対面というのならともかく、エルザはその僧侶と知り合いのようだ。
そもそもずっと昔からここで育ってきて、さらに僧正になってもかかわってきている、というのならもうすでに勝手知ったるなんとやら、という奴である。
そういう感覚でエルザが言っているのは聞いた話と空気感から何となくわかったので、
「そうだな」
とロレーヌと一緒に言い、中へと進んでいった。
◇◆◇◆◇
「……うぉぉっ!?」
中に入ると同時に、俺は唐突に何か巨大な物体にのし掛かられた。
避けるべきか悩んだが、その圧力にはまるで敵意がなく、反応が遅れてしまった。
さらに言うなら、思った以上に速度が速かった、ということも言っておくべきだろう。
一体なんだ、なにが俺に……。
と思って改めて見てみると、
「……ハッ、ハッ……ベロベロ」
なま暖かい息づかいと共に、顔面を仮面ごとベロり、と嘗められる。
なんだかあまり気分は悪くない。
以前、遠出したときに遭遇した普巨蛙の舌にとらえられたときよりずっとましだな。
あのときはなんというか、べたっとしたというか、逃れられなくて死ぬほど暴れて、最終的にパーティーを組んでいた俺より上位の実力を持つ銅級冒険者に救われた記憶がある。
蛙系統の魔物はふざけた見た目の割に強いというか、元々は神々に使える神官だったという説があるからな。
嘗めてかかるとそれこそ嘗められて死ぬ……冗談にもならない結末である。
で、だ。
一体なにが俺の顔を嘗めているのかと言えば……。
「ちょっとちょっと! ポチさん! 離れなさい!」
という柔らかな声と共に、その存在は俺から離れる。
影は遠ざかり、そしてその物体の全貌が明らかになった
「……犬?」
真っ白な長い毛を伸ばした犬。
大きさは……でかいな……全長は間違いなく俺やロレーヌより大きい。
人間として巨大なサイズの者、と言えばなんとなくマルトの冒険者組合長のウルフを思い浮かべてしまうが、彼に匹敵する巨体だ。
それでいてその瞳は穏やかで純粋というか……優しいというか。
かわいらしい。
俺はどっちかというと猫より犬派だからな。
かわいいな、と思ってしまう。
ちなみにいうとロレーヌは猫派であり、そして冒険者たちの趨勢も猫派である。
手が掛からないし、人に懐く猫系統の魔物は少なくなく、相棒として非常に役に立つ場合も少なくないからだ。
犬は……極端なんだよな。
家族として、一緒に生活できる従順な奴らもいるが、そういう存在にはほとんど戦闘能力はなく、かと言って戦いで役に立つようなものを求めるとかなり上位の魔物になってしまう。
その間がないのだ。
かゆいところに手が届かないと言うか……しかしその代わりに一度懐くと死ぬまで、なにがあろうとついてきてくれる安心感がある。
猫系統の魔物は気まぐれで、やばいと思ったら速攻逃げるからな。
どちらにしろ痛し痒しなのだった。
「……あなたは?」
犬がどくと、その横に心配そうに俺を覗く妙齢の女性が立っていた。
彼女に尋ねたのだ。
エルザと異なり、正真正銘の若い人、だな。
「……ちょっと」
俺が考えたことを察してか、エルザにじとっと一瞬にらまれるが、すいっと流しておく。
「大丈夫ですか……? うちのポチがすみません……この子、普段はとっても大人しいんですけど……」
妙齢の女性は申し訳なさそうに俺にそう言う。
うん。
穏やかそうな物腰、静かな雰囲気、清楚な容姿。
どれをとっても非常にすばらしいと言える女性がそこにいた。
まぁ、俺の好みから言うと若干外れているが、大抵の男につきあいたいか、と聞いたらほぼ百パーセントがサムズアップをするだろうこと請け合いだ。
残りは告白してきたらつきあってやってもいい、と意地張って言うだろう。
男というのはバカばっかりだな……とくだらないことを考えたところで、俺は言う。
「この生き物は……犬でいいんですかね?」
「……どうなんでしょう? わかりません」
「わからないって……」
「いえ、昔からずっといるので。私がここに来たときからずっと。もう二十年以上前からですよ? 普通の犬にしては長生きすぎますから……たぶん、魔物なんだと思います」
ああ、そういう意味か。
俺は不死者だからそういうところをあんまり気にしなくなってしまっているところがあるが、普通の生き物……極端な魔力を持たない存在の寿命というのはだいたい皆、近いところがある。
人間以外のそれは、その種の中の大きさに比例する……ほ乳類なら大きい方が長生きなことが多く……まぁ、そうは言ってもかなりずれはあるが。
鯨は百年以上生きるが、犬は十五年前後、しかも中くらいの方が長生き、とか……鳥はそれほどでなくても七十年八十年生きるとか……。
この辺りは生物学者の解明を待ちたいところだ。
生き物がどれくらいまで寿命を伸張できるか、というのはいつだって皆の疑問である。
翻って魔物のことを考えると……俺はおそらく、このままなら寿命などない。
不死者だからな……そうでなくとも、普通の生き物よりも寿命が長いものが多いのが魔物という奴だ。
魔力がその生物の寿命を延ばしている、ということが言われているが、実際のところは微妙だ。
狂信的な学者たちは濃密な魔力の満ちた空間に通常生物を入れて飼育したりとか、その血液に魔力に満ちた液体を注入したりなどマッドな実験をたくさんしている。
ロレーヌもやってきただろう。
しかしそういう試行の末にわかったことは……《よくわからない》というにすぎない。
人などの通常生物と魔物、その境目というのは結局、なにもわかっていない。
学者たちにそう言ったら、そんなことはない、こういう点やこういうところが違っているのだ。
そんなことは学術的研究や実証からして明らかだろう、と顔を真っ赤にした糾弾があるのだろうが、しかし現実として、そういう学説というのは十年の月日も乗り越えられず、間違っていたと証明される。
そういったことが何十、何百回となく繰り返されているのだ。
結局魔物とは何なのだろう。
わからない。
わからないが……確かに二十年以上元気に生きていて、この大きさとなると魔物なのだろうな、と感覚的にはわかる。
そんな存在が……。
「わふわふっ!」
と語ってくるとなると……俺の驚きが分かろうというものである。