第483話 ヤーランの影と戦況
それからのフアナは動きの性質からして違った。
ロレーヌから魔術を撃たれているとき、それほどの速度もなく、反応も遅くはなかったにしても特段、目を引くほどの速さもなかった。
けれど今は……。
地面を蹴り、フアナはロレーヌまで距離を詰める。
それは肉食動物が獲物を追いつめる、最後の一足のように力強く、迫力のあるものだった。
もし仮に、ロレーヌがその草食動物であったのなら、狼狽し、あわてて逃げ、そしてそのまま押し倒されて終わっていただろうと想像できるような。
しかし、彼女はそんなものではない。
むしろロレーヌはその英知と人並みはずれた思考力でもってその肉食動物を罠に追い込むハンターである。
本能そのまま、と言った様子で向かってくるフアナをロレーヌは冷静に見つめ、それから、その拳が突き出された瞬間に魔術盾を形成し身を守った。
もちろん、フアナには《異能》がある。
その能力はたとえ魔術盾という本来強度的に均一であるべき魔術に存在するわずかな魔力的偏り……つまりはそのゆがみからくる弱点をも見抜くことが出来るらしかった。
その結果として、ロレーヌの魔術盾はフアナの拳の前に、バリン!と音を立てて割れ崩れ……。
だが、それで終わるような攻略しやすい女ではないのだ。
ロレーヌは。
フアナが突き出した拳。
彼女は即座にそれを引き戻そうとしたのだけれども、なぜかそれが出来ないらしかった。
引いても動かず、そのことにフアナは驚いたように目を見開く。
よく見ると、フアナの腕の周囲を魔術盾が手枷のように取り囲み、空中に拘束していた。
つまり、先ほどの魔術盾は二枚重ねだったのだろう。
一枚はフアナの油断を誘うために壊れやすく、そして見やすい位置に。
もう一枚はフアナが突きを放った部分を開き、そしてもう一度閉じることによって彼女の動きを封じるための枷にするために。
そういう意図で作り上げられた魔術だったのだ。
そして、その試みは成功した。
フアナの動きは今、封じられている。
といっても、手以外は自由であるので近づいてぶん殴る、というわけにもいかないだろうが、ロレーヌはそういう戦い方をするタイプではない。
ロレーヌはフアナがその場から動けないのを見て、静かに微笑み……魔力を集約させた。
そしてフアナの腕めがけて、太い雷撃が発せられる。
バリバリとした音と共に、フアナの体がびくり、と痙攣した。
それから地面にその体が落ちていく……ロレーヌが勝ったか、と思ったが、けれどその程度でフアナも終わるわけにはいかない、と思ったかどうか。
背中からつきそうだった体をくるり、と回して地面にしっかりと着地し、それからロレーヌから距離を取ったのだ。
体からはぶすぶすと煙を上げており、全く無傷とは言えない状態である……が、それでもその闘争心は失われていないようで、目はそれこそ肉食獣のように爛々と輝いている。
どう見ても、まだやる気だ。
そのことを理解して、誰よりもうれしそうなのはロレーヌであった。
まるでこの程度で終わられては困る、とでも言うようにフアナを見る彼女。
見応えのある戦いである。
「……あれだけ動けるならはじめからそうすれば良かったのに」
俺がそう呟くと、老人が答える。
「そうするときもあるが……フアナはロレーヌに対してそれでは通用しない可能性が高い、と読んだのじゃろう」
「というと?」
「ロレーヌは魔術師じゃが、あれでかなり近接戦も出来るな?」
「そうだな……」
どれくらい出来るかについては細かく語ると手の内を晒しすぎ、ということになりかねないのでふんわり答える。
老人もその辺りの機微については分かっているからうなずくだけに止め、話を続けた。
「となると、いきなり飛びかかっても初撃には十分な防御を固め、対応できるように準備しているだろうということは容易に想像がつく。実際、そうでなくとも魔術盾で対応しておったしな」
「確かにな。たまに模擬戦することもあるが、むやみやたらに突っ込んでいっても対応されることの方が多い」
この体になってからも、ロレーヌとはそれなりに模擬戦をしている。
もちろん、訓練のためというが基本だが、ロレーヌからすると実験というのもあるだろう。
俺はこの体になってから色々な能力が日に日に身に付いていっている。
それがどの程度変化したのか、実際に戦う中で確認している、というのものあるということだ。
《分化》一つとっても、昨日の俺が出来たことより、今日の俺が出来ることの方が多い。
わずかな差ではあるが……たとえば、一ミリ長く影をのばせるようになったとか、コンマ一秒早くなった、とかな。
しかしそれでも実戦となれば相当な違いとなる。
ほんの一瞬が、勝敗を分けるのだから。
「フアナは、そのむやみやたらを嫌ったんじゃろう」
「意外だな。むしろそういう風にしか行動しないタイプかと思っていたが」
「あれで考えるところは考えておる。いや、それも含めて本能的に、という感じじゃから、考えていないということになるのかもしれんが……まぁ、それはよい。ともかく、フアナがしようとしたのは、ロレーヌの油断を引き出そうとしたのじゃろう」
そこまで言われて、あぁ、と俺は思う。
「魔術師だから、魔術師としての動きしかできない、と印象づけておいて、急にあの感じで来られたら確かに面食らうかもな」
つまり、そういう効果を狙った、ということだろう。
闘技場内でフアナは今も縦横無尽に動き回っている。
明らかに魔術と言うよりは、獣のそれだ。
あんな体の小さな、大きめのローブを身にまとった少女がこんな動きをするなど、そうそう予測は出来ない。
もちろん、先入観を持つことはよくないことだが、人はどうしても目に入ったもので物事をまず、判断してしまうものだ。
そう思っての俺の言葉に老人はうなずく。
「そういうことじゃ。ま、失敗したようじゃが……ロレーヌに異能を見抜かれるのが早かった。拳を使わざるを得なくなって、作戦を捨てたのじゃろうな」
つまりは、ロレーヌ優位で戦いは進んでいる、ということだ。
今の戦いの様子を見るに、ロレーヌの方が詰められているように見えるが、フアナの攻撃は未だにロレーヌに防がれ続けているのがその証拠と言うことだろうか。
そろそろ、決着もつくということかな……。




