第473話 ヤーランの影と愚者
闘技場の中を歩き、ついにたどり着いた場所。
そこは確かに地下であったが、意外な光景が広がっていた。
「……こんなところにも闘技場が……」
俺がそうつぶやくと、老人が言う。
「ここは、わしら組織が模擬戦などをするときによく使うところじゃ。と言っても、外部に明かされていないというわけでもない。お主らでも金さえ払えば上の闘技場と同様、普通に借りることはできるがのう」
闘技場の賃貸料は借りる時間にもよるが、最低でも金貨数百枚に上る。
今の俺になら絶対に払えない、とまでは言わないが、それを払っても問題ないくらいに利益を上げることの出来る見せ物を開催するのはそんな簡単なことではない。
少なくとも俺には無理そうだ……。
おそらくだが、ロレーヌであればできるだろうとは思うけどな。
どうやってか、といえば、たとえば……その極めて精密な魔術制御能力でもって、演劇の演出とかをすればいいのだ。
そういう魔術師はそれなりにいるが、一流どころの劇団についている、いわゆる座付きという奴でもロレーヌの技術には足下にも及ばないだろう。
これは、腕のある魔術師なら普通に魔物を倒してその素材を納品する方が儲かるから、そもそもそういった魔術師になろうとする者が少ないからだな。
もちろん、世界にはロレーヌよりも細かく芸術的な幻影魔術を行使できる魔術師というのもいるが、それはまさに完璧を追求した超一流どころの専門家である。
この田舎国家、ヤーラン王国にそんな大層な存在がいるはずもなく、そのような状況であればロレーヌなら今すぐに転職してもやっていけるだろうし、そのまま数年も続ければ経験も実力も磨かれ、いずれは世界トップクラスになってしまうかもしれない。
改めて、どこでも食べていける人だな……と思う。
翻って俺にもなんかできないのか。
あぁ、《分化》で影絵をやるとかどうかな。
……地味すぎるか。
「それにしても、貴方たちもしっかり訓練しているのだな」
ロレーヌがそう言うと、老人は頷く。
「当然じゃ。腕が鈍れば即座に死につながる商売じゃからな。ある意味では冒険者よりもシビアかもしれん。冒険者は依頼に失敗しても、あきらめて逃げてもなんとかなるかもしれんが、わしらはそうは言えん……。今回のことでも分かるように、その失敗や逃亡のあとに、一体どこから狙われるか分かったものではないからのう」
その言葉には深い実感が宿っていて、なんだか同情したくなる。
今までほとんど関わったことがないから、暗殺者という職業について深く考えたことはなかったが、よくよく考えてみると……。
意外と割に合わないものなのかもしれないな。
常に誰かの恨みや疑いを買い、心の安まる瞬間もほとんどない。
それだけに報酬は高額なのだろうが、それにしたってかなり忙しそうだ。
使う暇もなく、依頼から依頼へと日々が塗りつぶされ、移っていく……。
何か他に向いた職業があれば辞めたくなる、というのもまさに道理だと言えよう。
《ゴブリン》がまさにそうだしな。
《スプリガン》も、その語りぶりからして、もしかしたらやめたいと思っているのかもしれないが、彼の場合、面倒を見るべき部下が大勢いる。
自分が辞めて、はい終わり、というわけにもいかないのだろう。
人間、中途半端に偉くなると責任ばかり増えて大変である。
「ま、それはよい。来いと言われたのはここじゃ。どこかに誰かがいるはず……」
そう言いながら老人はきょろきょろと辺りを見回す。
この地下闘技場は、中心部に平場が存在し、その周囲を七段ほどの観客席がその平場を円形に囲んでいる。
地上に存在する、本来の闘技場に比べるとその規模は概ね四分の一から五分の一、という感じであるが、高さは結構あって地下にあるにも関わらず、あまり閉塞感はない。
ここで毎日のように模擬戦をし、訓練をしているというのなら、彼らの組織の構成員の対人戦闘能力が磨かれるのも理解できる。
もちろん、職業柄真正面から戦うことは少ないのだろうが、その実力を磨いておくことも重要なのは間違いない。
何はともあれ、とりあえずただ強い、というのは戦闘を生業とする者なら誰にとっても必要なことだからだ。
ただ、流石にここで老人が巨人と化して戦う、というわけにはいかないだろうな。
そうならずとも、老人は強かったし、腕だけとか足だけとか巨大化するだけでも攻撃力は普通なら即死レベルのそれなのだから、何の問題もないだろうが。
それからしばらくきょろきょろしていると、突然、ピカッ!と眩しげな光が闘技場に差し込んだ。
いや、少し違うか。
厳密に言うと、闘技場の奥、俺たちのちょうど真正面辺りの観客席、その三段目辺りの一部を円形に照らしているのだ。
この光は、明らかに何かを燃やして得ているものではないことは、その光の揺らぎのなさからも分かる。
たとえ鏡を使って光を屈折させているとしても、どうしても火から得た明かりでは揺らいでしまうものだからな。
つまり、魔道具の光、ということになる。
照明の魔道具は普通に制作技術が存在するので、手に入れようと思えば注文すればどこでも手にはいるのだが、かなり高価なものなのでこういった、公共の施設にしか使われない。
一般家屋では、やはり大抵が蝋燭になる。
大量に得られる魔物や動物の脂から作られたものである。
高価なものだと、蜜蝋とか木蝋もあるが、そういうのを使うのは多くが貴族だな。
そういうことを考えると、資金力は相当なものだと分かる。
照らすだけでも無料ではなく、魔石や魔術師による魔力の充填が必要なので、どうしてもコストがかかる。
それをこんなに無造作につかっているのは……。
ちなみに、今、その光が照らしているのは、二人の人物だった。
一人はかなりの巨体を持った男であり、もう一人はかなり背の低い……少女と思しき人物だった。
「……よく来たな! 裏切り者と、卑怯者よ! 俺は、ヴァサ! 《剛鉄》のヴァサだ!」
「そして私が、《魔賢》フアナよ!」
二人はそう名乗り上げて、その場からジャンプし、空中でくるくると回って、すたり、と着地した。
芸の細かいことに、照明はそんな二人を追いかけて、今もまだ照らしている。
「……なんだこいつら」
俺が思わずそう言うと、老人は呆れたように言った。
「……バカなんじゃ。腕は確かなんじゃがのう……」