第430話 塔と学院、交渉
「ナイフで……私、そんなことしていません!」
フェリシーは強い口調でそう言うが、ロレーヌは淡々と事実だけを述べる。
こういうときは嘘は言わない方がいいものだ。
真実は時として偽りよりも厳しい。
「したんだ。と言っても、もちろん君の意志ではないことは分かっている。さきほど言ったが、他人を催眠にかけられる者がいたのだ」
「催眠……」
フェリシーはその部分を聞き逃していたらしい。
いや、記憶がないとはいえ、自らがしたらしいあまりにも衝撃的な行動に注意がその部分しか向かなかったというところかな。
お前、覚えてないかもしれないけど俺を刺そうとしたんだぜ、と唐突にいわれても、いやいやいやいや、嘘でしょ!?となるのが普通というものだ。
フェリシーはとりあえず、より詳しい説明が欲しかったのか、ロレーヌの顔を強い視線で見続けた。
非難するようなものではなく、一体なぜ、そうなったのか知りたい、と主張するようなものだ。
「催眠とは何か、分かるか?」
「言葉は……なんとなく」
いくら田舎の村とはいっても、それくらいの知識はあるか。
辺境の村々を渡って芸を披露する旅芸人集団の中に、一人や二人催眠術師を名乗るものはいることはあるからだ。
ただ、その場合は、大体がインチキだったりするのでそんなことは普通ない、とほとんどの大人は思っている。
もちろん、魔術を使えば別だが、それが出来るほどの魔術師というのは少なく、またそれについての知識は世の中にさほど浸透しているとは言えない。
つまり、催眠術、というのは子供だましのインチキだ、という認識がこういう村だと多いと言うことだ。
ロレーヌは続ける。
「色々な定義が出来るし、君も見たことがあるようなものだと子供だましのようなものが大半だったと思う。ああいうのはサクラを紛れ込ませておいて、かかったように見せかけることが多いからな。椅子から立てなくなったり、何を見ても笑いだしたり、食べ物の味が変わった、とか感じさせたり……」
フェリシーはロレーヌの言葉に記憶を刺激されたのか、頷いていう。
「子供の頃は、本当なんだと信じていましたが……そういう場合、催眠術をかけられる人は旅芸人の一座の人たちばかりだったりしたので、大人になるにつれて信じなくなってしまいました。村の大人だったりすることもありましたけど、ちょっとお金をもらってるところを目撃しちゃったりとか」
つまりは、まさにサクラだったということだな。
「そんなものだろうな……だが、世の中に存在する催眠術師の全てが嘘、というわけでもない。数はあまり多くないが、“本物”というのはいる。それがなぜ起こるのか、研究している学者というのもそれなりにいるからな。私は専門外だが……ちょっとかけてもらったこともある。その経験から言わせてもらうと、確かにそれはあるのだ、と言わざるを得ない」
ロレーヌも以前、帝都にいたときは相当色々な学問に手を出していたのだろうが、そのときの経験だろうな。
また随分と変わったことにまで関わっていたものだ、と思うが彼女は好奇心の塊である。
むしろ自然な行動と言えるだろう。
これにフェリシーはいぶかしげな眼で、
「本当ですか……?」
と尋ねるも、ロレーヌは真面目な顔で頷いて言った。
「もちろんだとも。しかし、それでも他人にかけられる暗示というのはそこまで大それたものではない。かけられる時間も長くない。どんなに強力な暗示でも……人に複雑な行動をとらせることは出来ない。たとえば、今回の……フェリシー。君がかかったようなものは、そう言った一般的な催眠術では出来ないとされているものだ。君は、オーグリーを殺すようにと指示され、それに基づいてかなり複雑な行動をした。オーグリーの部屋を訪ね、思わせぶりな態度で迫り、可能な限り距離を縮められるように抱き着き、そして隠していたナイフを取り出して死角からオーグリーの命を狙った」
そうやって客観的に説明されるとかなり複雑な行動だな。
君は椅子から立ち上がれなくなるよ、なんてものどころではない。
いずれの行動にも本人の能動的な判断が必要なものである。
これが可能なら、自分の命を顧みない兵士などを作ることも可能になるだろう。
王様とかが喉から手が出るほど欲しがりそうな技術だ。
それを考えると……《セイレーン》がどこの誰から指示されてるのか分からないが、かなり重用されている存在なのだろうか?
その割には色々とお粗末な感じが強いが……俺たちが特殊過ぎたのかな。
普通、つけてる匂いから居場所を嗅ぎ付けられるなんて思わないだろう。
相手は犬じゃないんだから。
オーグリーの鼻は犬並みだったわけだが。
連れて来た《セイレーン》の匂いはちょっと嗅いでみたが、別にプンプンしてたというわけでもなかった。
むしろ、そう言ったものはある程度、流していたように思う。
その上で嗅ぎ付けたのだから、これはもう《セイレーン》の手落ちと言うより、運が悪かったとしか言えない。
「私は……そんなことをしたのですか……」
ロレーヌの説明に、自分のしたことの重大さを理解し、驚くフェリシー。
加えて、かなり女性としてはしたないことをしたと思ったのか、顔が赤い。
そして、しばらく考えて、フェリシーはオーグリーに言う。
「あの……全く覚えていないのですけど、酷いことをしたみたいでごめんなさい! ナイフで襲い掛かるなんて……そんなこと、許されるとは思いませんけど……本当に。あの、お怪我はないですか……?」
と謝った。
別に全然謝る必要のないことだと思う。
操られていたのだからな。
しかもそもそもの原因は俺たちがここにいることにある。
ただ、フェリシーはとにかく、自分が襲い掛かったのだ、ということに責任を感じているらしかった。
これにオーグリーは、
「いや、君は悪くないからいいさ。それに怪我なんて全くないしね。僕は大した冒険者ではないけど、流石に普通の村娘に不意打ちとは言え、怪我させられるほど鍛えていないわけでもない……それより、君の方も大丈夫かな?」
「え?」
「そのとき、君が正気を失っているようだったから、気絶させてしまったんだよ。首筋に手刀を打った……それに、また暴れられると困るかなと、縛ってしまったから、どちらも跡になっていないかな、と思って。そうならないようには気を遣ったつもりだったんだけど……」
言われて、フェリシーは腕を見るが、そこには当然跡はない。
布を挟んでいたからな。
加えて、首筋の方だが、こちらはロレーヌが一応確認し、
「あとは見えんな。綺麗な首だ」
と言った。
彼女が言うと、なんだか違う意味に聞こえる。
生首にして保存液漬けにしたら映えそうだな、みたいな。
ロレーヌの部屋には魔物の首の保存液漬けくらいダース単位であるからな……。
「そうですか……よかった。でも、仮に傷がついていても、それは仕方がないことです。命を守るため、ですもの」
フェリシーはほっとしたようにそう言った。
これにオーグリーは、
「そうかい? そう言ってくれると助かるね。ただ、そういうことのすべては、君に催眠をかけた奴が悪いのだから、君も気に病む必要はないのさ」
「でも……」
「どうしてもというのなら、これから他に、君と同じように催眠にかけられていた人たちに説明しなければならないんだけど、協力してくれないかな? 出来ればその際に、僕らがそもそもの原因があるかもしれない、ということは伏せてもらえると嬉しい。まさか宿を追い出されるわけにもいかないからね……どうかな?」
自然な様子でオーグリーがそう切り出す。
こういうとき、道化染みた振る舞いが似合う彼は得だ。
話に適度な軽さを与えられると言うか、それによってフェリシーは微笑み、
「……分かりました。それくらいでしたら」
と頷いたからである。