第423話 塔と学院、違和感
その言葉を言うが早いか、オーグリーの腰目がけて、フェリシーの片腕が迫った。
ちらりと視界の端に入ったそれを確認すれば、その手にはいつの間にか握られた銀色のきらめきがある。
――ナイフだった。
明らかにオーグリーを害そうとする意志でもって振るわれているそれ。
この近距離で、しかもほとんど体を拘束されているような状態で向けられれば、普通であれば反応することも出来ずに突き刺されて終わるだろう。
しかし、オーグリーは冒険者だった。
しかも、その中でも才能ある者にしか与えられることのない銀級を保持する者。
ほとんど間をおかずに振るわれたそれをすら、視覚でもって捉えることが出来ていることからも、彼にとってはこの程度のことは危機にはならない。
魔物の中にはもっと素早い者もいるし、見えない距離から魔術を打ち込んでくるような盗賊もいたりする。
そういう者たち相手に日夜戦っているオーグリー。
華奢な少女が精いっぱい振るったナイフは、オーグリーの腹に刺さる前に、その手首から捉えられ、そして痺れる程度の、しかしながら跡が残らない程度の握力で握られて、フェリシーはそのナイフを取り落としたのだった。
もはや、フェリシーのこれ以上の抵抗は無駄である。
誰にでもそう理解できる状況であるが、それでもフェリシーは沈黙しなかった。
それどころか、
「……あぁぁっぁ!!!」
と、奇声を上げて暴れ出す。
ただ、その動きには酒場での時や、先ほどまでのような、年若い少女のするような振る舞いではなく、むしろ野生動物か何かのような異常なものだった。
オーグリーはそれに何かを察し、手首を持ったまま、フェリシーを軽く自分の方へ引き、彼女が前に少しつんのめって、白く細い首筋が露わになったことを確認したところで、そこに向かって軽く手刀を落とした。
何気ない動作であったが、その一撃は十分に彼女の意識を奪いうるもので、すぐにがくり、とフェリシーの体中の力が抜ける。
そんな彼女が地面に向かって倒れ込むことのないように、オーグリーは彼女の脇の下に手をやって支えると、しっかりと意識が失われていることを確認した上で、ベッドに静かに寝かせた。
さらに、自分の道具袋から縄を取り出す。
それでもって、フェリシーの手足を、跡が残らないように布を挟ませた上で縛った。
これはもちろん、念のためである。
目が覚めて、再度襲い掛かられた、では話にならない。
「……ともあれ、とりあえずなんとかなった、のかな……。しかし……」
――彼女が、セイレーンなのかな?
という疑問がオーグリーの頭に浮かぶ。
状況から鑑みるに、そうだと考えるのが一番しっくりくるだろうが、しかしそうだと考えると色々と奇妙な点が考えられる。
まず、かなりお粗末ではないか、ということだ。
確かに、色仕掛けでもって油断させ、命なりなんなりを奪う、というのは昔からよくある方法であり、引っかかる男たちのあまりの多さを考えると決して馬鹿にしたものでもない。
男というのはどうしてもこういうのに弱い。
それは本能だ。
どうしようもない。
セイレーンがそう言ったことを得意とする工作員であり、したがってこういうことになった、というのはそれなりに納得は出来なくもない。
オーグリーが簡単に対処することが出来たのは、もともとそういうのが来るだろうと想定していたからであって、そうでなければフェリシーが本当にオーグリーに惚れたのだと考えてしまっていた可能性もないではない。
そう考えると、別におかしくはない、のかもしれない。
だが、もしそういう狙いで来るのなら、フェリシーは酒場での会話はもっと積極的にすべきだっただろうし、オーグリーに対して興味を持っている、といわれても納得できるような行動をとっておくべきだろう。
そこまでのものは確実になかったと言える。
にも関わらず彼女はこうしてきた。
これは、違和感だ。
また、フェリシーの力についても奇妙だ。
もし彼女がセイレーンであるとすれば、彼女は曲がりなりにも工作員としての教育を受けている者と言える。
したがって、それなりの戦闘能力はもっているはずだ。
レントが話を盗み聞きしたあの地点から、この村まで一人でやってきたところも考えると、その道中、魔物や盗賊の危険もあることを考えれば、そう言った危険に一人で十分に対応できる能力があると考えられる。
なのに、フェリシーの先ほどのナイフの振り方は、まるで素人のそれだった。
力も村の少女の持つそれを超えることはなかったし、振り方それ自体も、一度ナイフを引いてから刺そうとするなど、素人くさいことこの上ない。
オーグリーであれば、同じことをしようとしたら引いたりせずにそのまま押し込むだろう。
その方が早いし、人の体などそれで十分に傷つけられる。
勢いをつける時間が無駄だ。
レントやロレーヌでもそうするだろう。
そんな基本的なことすらもやらなかったのだ。
フェリシーは。
つまり、彼女は、違うのではないか。
そんな気がした。
では、どうしてオーグリーを襲ったのか。
それは分からない。
いくつか理由は考えられなくもないが、確定には至らない。
ここは、相談が必要だろう、とオーグリーは結論する。
フェリシーをここに置いたままにしておくのは、彼女がセイレーンであってもなくても不安なので、とりあえず彼女を担ぐ。
それから、レントとロレーヌの下へ向かうことにした。
◆◇◆◇◆
全体的に樹齢の高い木々で作られた宿は通路にも温かみが満ちている。
今は、その通路の壁に獣脂で作られたと思しき蝋燭が点っていて、獣くさい空気を充満させている。
冒険者やこういった田舎の村の人間にとっては馴染みの、慣れた匂いであるが、都会の者にとっては少しばかりきつい匂いかもしれないなと思う。
マルトでも比較的よくつかわれているものだが、王都では木蝋が主流だが、これは値段が張る。
もっと良いところ……高級宿や服飾店などでは火事を警戒して魔道具の方が基本になっている。もちろん、こっちは更に高い。
オーグリーは光が弱いが、それでも柔らかみがある獣脂の蝋燭が好みだが、この匂いはどうにかならないかなといつも思う。
服につくと取りにくいのだ。
「……ま、この状況で考えることじゃないか」
そんな独り言をつぶやきつつ、レントの部屋の前に辿り着く。
扉を叩くと、
「……誰だ?」
と少しばかり警戒した声が響いた。