第417話 塔と学院、ゴブリンの仲間
「……ん? 馬車が止まったな」
今の今までしっかりと元の道を戻っていた馬車が静かに止まった。
どこかに着いたというわけでもなさそうだし、どうしたのか、と思っていると幌を開けてヤツールが顔を出した。
「すまねぇ、旦那方。ちょっと用を足してくるからよ」
なるほど、どこの回し者なのかは知らないが、しかしそれでも人間である。
普通に用くらい足すだろう……と納得するほどみんな性格がいいわけでもない。
俺は寝てる演技中なので、ロレーヌが言う。
「街道はほとんど魔物は出ないとはいえ、盗賊なんかの危険もある。着いていこう……」
つまりは、見張りがいるだろうというわけだ。
普通はそうだし、今の今まで、そうやっていた。
だから普通の流れのはずだが、ヤツールはロレーヌがそう口にしたことをうまく利用した。
「いやいや! 流石に女についてきてもらうわけにはいかねぇよ! 最中を見られるのは恥ずかしいぜ……!!」
そう言いながら、他の誰にも、というかオーグリーに口を挟ませないようにさっさとどこかに行ってしまう。
彼の言葉を信じるなら、そのまま用を足しに行った、のだろうがそんなわけもないだろう。
それならオーグリーを連れて行った方が確実に安全なのだから。
つまりはそういうことにならないように巧妙に声をかけたわけだろう。
俺がまだ眠っていることも確認し、またロレーヌが返答するように彼女の方に向かって話しかけていた。
失敗したらしたで、何か他の言い訳も考えていたのかもしれない。
「……行っちゃったよ。やれやれ。僕にも見られたくないのかな」
オーグリーが肩を竦めつつ、冗談めかしてそう言う。
「見られたいか見られたくないかで言ったら、別に見られたくはないだろう。それにオーグリーは森じゃ目立ちそうだしな」
今の彼の格好もまた、結構目に来るチカチカスタイルである。
実際に魔物が襲ってきた場合には彼の方に注意が向かうので群れなんかの攻撃方向をコントロールしやすいという効果を生んでいる。
それを考えてあの格好をしているというのなら彼も中々の犠牲心を持つ見上げた冒険者だ、ということになるだろうが、本人ははっきりと趣味だ、と断言している。
効果の方は副次的なものだ。
そんな彼に着いて来られたら安心して用も足せない、とか言えるかもしれない。
「一応、これでも気配を隠そうと思えば隠せるんだけどね。上から外套を被ったりとかして……。まぁ、そんなことを懸念したわけではないんだろうけど、さ」
「やはり仲間がいるのだろうな。森で落ち合う、と……見に行ってみるか?」
ロレーヌがそう尋ねるが、ここは微妙なところだ。
「三人で行けば流石にばれそうだからな……俺が行ってくるよ。出来たらとっ捕まえた方が良いかな?」
誰が行っても構わないのだが、ヤツールが合流するだろう仲間の中に、感知能力に優れた者がいる可能性がある。
あまり近づかずに話を聞くことの出来る俺が行った方がいいだろうという判断だった。
魔物イヤーは中々の性能を持っている。
「そこは臨機応変に行こうではないか。ただ、何をやろうとしているのか確認できそうなら、とりあえず聞くだけ聞いて放置するのがいいかもしれん。捕まえようとして逃がして、何か知らないことをやられるよりその方がいいだろう」
「手の内を明らかにさせといて、何食わぬ顔で踏み潰していこうってことかい? それはこういうことを仕事にしている者にとっては悪夢だろうね……」
オーグリーが慄然とした表情でそう言うが、七割方は冗談みたいなものだ。
ただ、言っている内容は事実だろう。
どこの間者か分からないが、そういう立場の人間からすれば、何をしようが真正面から全部潰されていくのは見たくない夢を延々と目の前で見せられているようなものだろう。
気に入った。
「それでいこう」
俺は頷き、ヤツールにばれないよう、密かに幌を出た。
◆◇◆◇◆
《ゴブリン》はそれなりに腕利きの工作員ではあった。
しかしそれでも、どんな任務でさえも一人で達成できる、などとは思っていない。
したがって、今回もしっかり、失敗をフォローする、もしくは相互に協力し合いながら任務を達成するための同僚を連れてきていた。
と言っても、それはヤツールの意志というよりは、主が念には念を、と言っていささか過剰戦力を投入した感じになる。
けれど、今回の主のその判断は非常に正しかったものだと《ゴブリン》は考えていた。
馬車から離れ、森に少し入って用を足すふりをしつつ、仲間にだけ分かる符牒を示す。
すると、先ほどまでどこにもなかった気配が近くに二つ、満ちた。
《ゴブリン》は彼らに言う。
「……《仕掛け》は通用しなかった。失敗だ。しかし、まだ気づかれてはいない。作戦は続行する」
「……貴方がしくじるなんて珍しいわね、《ゴブリン》。今回の相手はそれほどの者なのかしら?」
聞こえてきたのは若い女の声だった。
艶やかで魅力的なその声には、自信も感じられる。
「いや……まだ何とも言えん。巡り合わせや運が作用した可能性もある」
「それならもう一度挑戦すればいいでしょう?」
女のあっけらかんとした返答は、少し考えが足りない。
彼女もまた、《ゴブリン》と同様に訓練された工作員である。
しかし、その経験は浅い。
まだその役について数年しか経っていない。
こなしてきた任務も比較的簡単なものが多かった。
だから、世の中には想像もつかない不思議な物事がある、ということを分かっていないのだ。
今はまだ、《ゴブリン》もかすかに違和感を感じているにすぎないが、心のどこかが今回の相手に油断してはならない、と告げている気がした。
考え過ぎだろう、と心の大半の部分は言っているが……こういうときの勘は、大事にしたほうがいい。
「……《セイレーン》。君の輝かしい経歴は知っているが、今回はそんな君の経験では図れない相手かも知れない。常にそういう意識を持っておくのが大事だ。もちろん、大したことがない相手かも知れないが……」
「どうかしら。ま……私は私の《舞台》を先に整えておくことにするわ。この先でね」
そう言った後、《セイレーン》の声は消えた。
変わって《ゴブリン》に声をかけたのは、《セイレーン》のものとは似ても似つかない、しわがれた声である。
「……侮るのは問題じゃが、だからと言って恐れすぎるのもいかんぞ。《ゴブリン》よ」
「それは、そうだ。だが……」
何が不安なのか。
心が妙に泡立っている……。
そんな《ゴブリン》にしわがれた声は少し、苦笑し、
「……なに。何か問題があった場合には、わしが尻拭いをしよう。《ゴブリン》、お主もあの娘、《セイレーン》も……思う様、やってみるがいい……」
そう言って消えたのだった。