第374話 学院首席ノエル・クルージュ1
王都ヴィステルヤから遠路はるばる、辺境都市マルトとなどというど田舎くんだりにやっと着いたかと思えば、いきなりこれだ。
《学院》主席ノエル・クルージュは、目の前からそそくさといなくなろうとするどこかの国の商人の背中と、自分のローブの状態を確認しながら、そんなことを考えた。
さきほど、商人にぶつかった直後、キン、と何かローブの魔術構成に干渉されたような耳鳴りがし、簡単にだが確認してみたところ、全損というわけではないが、ローブにかけられた魔術効がかなり減衰されてしまっていることに気づいたのだ。
もちろん、ローブは《学院》お抱え職人謹製であり、そう簡単に壊れるものではない、ということは分かっている。
しかし、そうであるとしても事実は事実だ。
少なくとも、このマルトにたどり着いたときには何の問題もなかったローブの機能が低下していることは事実であり、そしてマルト到着から今に至る間での間で、何か奇妙なことが起こってないかと尋ねられれば、それはそこに見える商人に追突されたことくらいである、ということになる。
論理的に考えて、あの商人が犯人なのは十中八九間違いない、と思った。
普段であれば、それを確認した時点で《学院》の教授に話を持って行き、糾弾してもらうとか、自ら足を止めさせるにしても比較的穏便にそれを行っただろうとは思う。
しかし、今回の場合、その自制が働かなかった。
結果、商人とは口論になってしまい、周囲の視線を集めることになった。
失敗だった、と心底思ったのは勿論だ。
普段から、お前は語り口調が少々、尊大なのであり、その性質を少しは押さえて行動するように、と言われることの多い自分である。
こういうことのないように、と外に出るときは注意していたはずだった。
それなのにこんなことになったのは、ここ最近の生活にストレスが多すぎたからだろう。
それでも何の言い訳にもならないが……。
ともかく、こんなことになってしまったからには、とれる選択肢は少ない。
ただ、自分の主張には概ね、間違いがないこと……商人にこそ責められるべき事情があるということは、商人の過剰なまでの反論によってむしろ明らかになったのでよしとする。
普通の……その辺の露天や店舗でしか商人と接する機会のない平民だったらその違いは分からなかったかも知れない。
しかし、ノエルの家は、それなりの格のある貴族だ。
具体的に言うと、クルージュ家はヤーラン王国の伯爵位に該当する。
その権勢について語ると、正直胸を張れないのだが……在りし日は宰相を輩出したことすらある名家である。
そのため、今でも商人とはかなり規模の大きい取引をしている。
その際、当然ながら交渉が行われるわけだが、ノエルはそういった席に同席することもあった。
もちろん、ノエル自身が交渉するわけではなく、いずれ伯爵位を継ぐ者として、経験を積むため、そして商人との顔つなぎのため、という理由だ。
なので、この年にしては、そういった商人の浮かべる感情の機微というものにある程度理解しており、そこからすると、今目の前に立つこの商人はすこぶる怪しい、というのがノエルの出した結論だった。
とはいえ、問題はその先だった。
どうやってローブの魔術効を傷つけたのか。
それが、分からなかった。
意図したことではないが、商人の感情はかなり高ぶっているし、煽ってやればボロくらいは出すか、と思ったが、そこは流石に商人と言うことだ。
特にそう言ったことはなく、事態は膠着してしまった。
ここで一旦引き、《学院》から正式に抗議をする、という手段もある。
《学院》にはそれだけの力があるし、ノエルの主張もローブの状態を精査してもらえば認めてもらえるだろう。
しかし、それをした場合、この商人は二度と見つからないような気がしていた。
ここで逃がしてしまうのは、よくない手だと。
ただの勘かも知れないが……。
そう言ったことを考えていると、突然、人混みのなから一人の少女が飛び出してきた。
エリーゼ・ジョルジュ。
《学院》でノエルに次ぐ、次席である、将来有望な少女である。
とはいえ、その性格は少し面倒くさい。
正義感とか正当性とか、そういうものをまず第一に行動するようなところがあるタイプだからだ。
それが間違っている、というわけではないのだが、この場においてそういう価値観で行動しがちな彼女が出てくると、事態がややこしくなるのは火を見るより明らかだった。
実際、ノエルと商人の言い争いだったはずなのに、いつの間にやらノエルとエリーゼの口論になっていた。
商人の方をちらりとみると、人混みの隙間を探すようにチラチラと視線を動かしている。
目を離すと逃げるな、と思わずにはいられない行動だった。
やはり、何か後ろ暗いところがあるらしい……しかし、それはいったいなんだ?
その辺りに、ノエルのローブを傷つけた理由がありそうな気もするが、それが何なのかははっきりこれ、と断定することが出来ない。
結果的にエリーゼとの口論は、それを考えるための時間稼ぎになったので、まぁ、悪くはなかったかも知れないが、このままでは……。
そこまで考えたところ、今度は別の人物が人混みの中からするり、と出てきて、ノエルとエリーゼの口論を止める。
……誰だ?
まず、ノエルはそう思った。
エリーゼもそうだったのだろう。
しかし、誰なのかは分からないにしても、ノエルはその人物が相当な実力を持った魔術師であることは分かった。
研ぎ澄まされた魔力、淀みのない構成。
並の魔術師では分からないだろうが、何かあったときには瞬間的に魔術を放つことが出来るよう、準備しているのが分かってしまった。
いや、ノエルも正直なところを言えば、いくら《学院》主席とはいえ、見習いにすぎない。
そのため、自分の実力は並、もしくは並以下の魔術師なのだと正確に認識しているが、にもかかわらずそれが分かるのは、《学院》に入学する前、家庭教師としてついていた帝国出身の高位魔術師の爺さんが同じ雰囲気をしていたからだった。
ノエルが授業をさぼろうとすると、あの雰囲気を出し、威圧してきて……それでも反抗しようとすると、笑いながら魔術を撃ち込んできた。
もちろん、命中したのは当たっても最悪、打撲くらいで済む水の魔術程度のもので、それ以外のものは寸止めとかぎりぎり横を焼くとかくらいだったが、思い出されるのはその恐ろしさだ。
この爺さんは、その気になれば一瞬で自分の息の根を止められるのだ、と心の底から理解していた。
思い出したくない話である。
それなのに、実に恐ろしいことに。それと同じ雰囲気を、目の前の女性は放っていた。
だから、ひどく近くにやってこられ、自分の衣服を掴まれても、ノエルは全く動くことも、声を発することも出来なかった。