第18話 学者ロレーヌ・ヴィヴィエ(後)
後になってあの中年冒険者に尋ねてみれば、本当にロレーヌにただで荷物持ちをつけてやろうと思っていたわけではなく、その行動や身のこなしなどから見て、何の経験もなく依頼に出ようとしていることが分かったため、案内役としてレントを付けた、というのが真相だったようだ。
これにはロレーヌも、冒険者組合というのは、駆け出し冒険者にそこまで細かな配慮をしているものなのか、と驚いたが、そういうわけでもないらしい。
ただ、中年冒険者とレントが、冒険者組合併設の酒場で冒険者たちの様子を見ていると、ふとロレーヌが目に入り、二人で話しておそらくは、このまま行かせては取り返しのつかない可能性になるだろうと一致したようだ。
それで、ロレーヌのプライドを傷つけないように、レントを荷物持ちとして、という流れでついていかせることに決め、あとは二人で上手にロレーヌに近づいたらしい。
手の込んだことをするものだ、と思うと同時に、ありがたい配慮だったとロレーヌはそれを聞いて思った。
やはり、自分の見ていた世界が狭かったとも。
結局、手元しか見えていなかったのだ。ロレーヌは。
知らないものがたくさんあることは知っている、と思っていたが、知らないものの数は知っていると思っていた。
現実にはそれすらも知らなかった。
そういうことだろう。
そしてそれをレントと、あの中年冒険者に教えられた、というわけだ。
ロレーヌはこのあとしばらく都市マルトにいた。
それは今までの人生が全くの灰色に思えるほど楽しい日々で、人生を通して初めて、この都市を離れがたいと感じた。
しかし、この国のこの都市に、ロレーヌはそもそも自分の本来いる場所で果たすべき役割を放り出して来ていた。
何日、何週間と経つうち、ロレーヌをせっつく連絡も積み重なって行って、ロレーヌはついに決断した。
一度、戻ろうと。
そして、またここに戻ってこようと。
もともといたあの場所に、さしたる未練はもうなかった。
学者としての生き方それ自体は好きだが、別にあの場所にいなくても出来る。
だから、何もかもをしっかりと片づけて、そしてここに戻ってくるべく、ロレーヌはある日、都市マルトを旅立った。
ただ、実際に戻ってみれば、そこは以前思っていたような、つまらない場所でもなかった。
開いた目でよく見てみれば、心配してくれる同僚や友人が意外にもいて、ロレーヌの今までいた場所は、空虚な椅子などではなかったことを知った。
レントに会わなければ、これもまた、見えなかったことだ。
彼に会ったことで、ロレーヌの心の目が開いたのだ。
そんな気がした。
しかし、それでも。
都市マルトには戻りたかった。
古くも新しい友人、同僚たちには悪いと思ったが、どうしても。
そのことを告げれば、彼らは絶望的な表情を浮かべたが、最終的には受け入れてくれた。
ロレーヌの決意や、何か変わったことを彼らなりに感じ取ってくれたからかもしれない。
けれど、代わりに、少し条件をつけられた。
都市マルトに本拠地を置くのは構わないが、年に一度は戻ってくるように、と。
そこで彼らと交友を深め、またその一年で研究した成果を発表してくれと。
そして連絡も絶たないでくれとも。
それくらいのことなら、と軽く了承し、実際にそのように活動し始めだ。
しかし、都市マルトに家を買い、一人暮らしを始めてからしばらく、その過程で自分がいかにナマケモノだったかを知った。
研究は趣味であるからしっかりやっていたのだが、本国の友人たちとの連絡は最初は定期的に行っていたが、徐々にアバウトになっていった。
いや、向こうはずっと定期的に手紙を送ってくるのだが、ロレーヌの返信は気が向いた時になってしまっていた。
年に一度戻ってくるように、との話も、近づくにつれて、今年はいいかなぁ、と思ったりもした。
けれど、気づいたら、手紙の返信も、帰省も、レントにせっつかれてしっかりとすることになっていた。
なぜ、レントがそんなことを知っているのかと聞けば、本国の友人の一人が、レントに手紙を送り、ロレーヌをよろしくと言われたからだ、と話した。
誰に言えばロレーヌが動かざるを得ないかを、友人は良く知っていたらしい。
実際、一人暮らしを始めて最初はレントに頼りきりだった。
何をどうすればいいのか、大半がロレーヌには分からなかったからだ。
すべてを教えてもらい、一通り出来るようになって、しかし怠けるようになってからは、レントがよくロレーヌのもとに来て、仕方ないな、と言いながら色々とやってくれるようになった。
と言っても、ただで、というわけではない。
いろいろやってもらう代わりに、レントにロレーヌは色々と教えた。
ロレーヌは腐っても学者である。それも、かなり優秀な。
つまり、通常はかなりの金額を払った上でやってもらうような研究を、レントはロレーヌの家事を肩代わりするくらいで頼めたわけだ。
もちろん、レントにそんなつもりはない。
というか、ロレーヌの過去の経歴を、レントは知らない。
ただ、都落ちしてきた木端学者だと思っているし、ロレーヌもそう説明してきた。
別に嘘はついていない。
ただ、自ら、というのと、かなり引き止められた、ということ、未だに本国に影響力が残っていて、かつ、学者として超がつくほど一流だということを言っていないだけだ。
まぁ、レントのことである。
その説明でどれほど納得しているのかは分からないが、とりあえず諸々について触れずにいてくれた十年間なのは間違いない。
ロレーヌは、こんな付き合いがずっと続いていけばいい、と考えていた。
そう、死ぬまでだ。
レントは冒険者を続けられるまで続けるだろうし、それを傍でずっと見続けられればそれでいい。
好きな研究を彼の傍でしつつ、たまに一緒に食事をとったり、くだらない話をして、そんな日々が続いていくのを疑っていなかった。
けれど。
ある日、レント・ファイナは姿を消した。
数日、ロレーヌのもとにやってこないことなど珍しく、何かあったのかもしれない、と不安に思った。
もしかしたら、魔物に殺されてしまったのかもしれないとも。
そうだとしたら……。
自分の心が、今までにないほど乱れているのをそのとき感じた。
今すぐにでも街中を、彼の名前を叫んで探して回りたいような、そんな気分だった。
しかし、ロレーヌはそれがいかに無意味なことかも、その明晰な頭脳で理解していた。
そんな方法ではなく、もっと別の方法で探す方がいいとも。
冒険者たちに依頼を出すのがいいだろう。
金に糸目はつけない。
それだけの貯蓄はある。
さぁ、依頼書を書こう……。
そう思ったそのとき、ロレーヌの家のノッカーを、適当に叩く音が聞こえた。
これは。
十年のときを経て、ロレーヌにも都市マルトに沢山の知り合いが出来た。
そのうちの誰かが訪ねてきた、その可能性もある。
ただ、この音には聞き覚えがあった。
ありとあらゆることについて研究癖のあるロレーヌは、ノッカーの叩き方にまで法則性を見つけ出して、覚えていた。
そして、この叩き方は――
レント・ファイナだ。
そう確信したとき、飛び出して出ていきたいと思ったが、それをするのは彼に奇妙に思われることだろう。
そもそも、彼が生きている。
そのことが分かっただけで、十分だった。
なぜここ数年は叩くことすらなかったのに、珍しくノッカーなど叩いているのかは謎だが、放っておけばそのうち勝手知ったるなんとやらで扉を開けて入ってくることも予想がついた。
だから、何もなかったこととして、彼を出迎えようと思った。
いつもなら、この時間、ロレーヌはソファで眠っている。
だからそのようにしよう。
髪を乱し、適当に横になる。
扉を開く音がする。
こつこつと歩く足音がして――彼は言った。
「……おい……おい。おきろ」




