第17話 学者ロレーヌ・ヴィヴィエ(前)
十四で大博士の号を帝都で得たとき、ロレーヌ・ヴィヴィエはこの世のつまらなさを心の底から感じた。
小さなころから神童と呼ばれ、成長してもその評価は変わらず、十歳でとある国における最高学府に入学し、十二のときには博士の号を、そして十四で大博士の号まで得てしまったロレーヌ。
彼女にとって理解できないことはこの世にはあまりなく、知らないことはあっても少し学べば専門家よりも深く理解してしまえるつまらない世界が、この世の中だった。
だからかもしれない。
ある日、ロレーヌはすべてを放り出して、大陸でも最も端にあるといってもいい、辺境国家ヤーラン王国の、さらに辺境にある都市マルトにまで誰にも何も言わずにやってきてしまった。
もちろん、建前としての理由はそれなりにある。
都市マルトの周辺でしか採取できないある植物が欲しくなり、それを自ら取りにきた、という理由が。
当然、そんなことは誰かに頼むなり冒険者に依頼するなりすればいいのだが、ロレーヌは本当に退屈していた。
刺激が欲しかったのだ。
だから、自分で取りに行く、という暴挙にでた。
そう、暴挙だ。
あれから十年経った今では、当時の自分が如何に子供じみた感覚で動いていたかが分かる。
勉強は出来たかもしれないが、結局のところ当時のロレーヌは子供で、何も分かっていなかった。
そのことを教えてくれた人物が、いた。
それこそが、当時、都市マルトで冒険者をしていた少年、レント・ファイナである。
ロレーヌは、ひょんなことから彼と共に都市マルト周辺に存在する森林の奥地を探索することになったのだ。
◇◆◇◆◇
当時のロレーヌは十四にして既に大博士の号を持っている一端の学者だったわけだが、その称号をとるためには魔術についてそれなりに詳しくなければならない。
そしてそのためにはある程度の魔術を扱える必要があり、そのある程度、とは、冒険者組合におけるランク評価によれば、銀級相当の魔術師として認められるほどのものである。
しかし、それはあくまで、銀級相当の魔術を使える魔術師、という意味合いであって、実際に冒険者として銀級程度の実力がある、ということを意味しない。
それでも通常ならそれなりに実戦経験は積むものだが、ロレーヌはただひたすらに学問の道に邁進していたため、時間のかかる魔術師としての実戦などしたことがなかった。
普通であれば、そんなことでは魔術師としての技能はそれほど身に付かないものなのだが、ロレーヌは不運にも魔術師としての才能に恵まれていた。
実戦経験などなくとも、魔術を使いこなす多大なるセンスがあり、それのみで銀級相当の魔術を身に付けてしまっていた。
当時、ロレーヌは冒険者組合の許可がなければ入ることのできない地域で素材の採取を行いたい事情があったため、冒険者組合に登録をしに来ていたわけだが、彼女の細かい事情を、冒険者組合が把握しているはずもなく、普通に冒険者組合に彼女が登録しにきた際に、大博士の称号を持っているということのみで、流れ作業的に銀級として登録してしまった。
そしてロレーヌは銀色に輝く冒険者証を持ち、気分よく自分の目的地に向かおうとした。
小遣い稼ぎにと、ついでに目的地周囲に生育しているという薬草の採取依頼も受けて。
しかし、冒険者組合を出ようとしたロレーヌにふと、後ろから声がかかった。
何かと思って後ろを振り返ってみると、そこには巨体を持った剣士がいて、
「嬢ちゃん、さっきアズールの森に行く依頼を受けたな? それなら荷物持ちついでにこいつを連れていけ」
そう言って、一人の少年の背中を押した。
なんてことのない出来事だが、今にして思うとロレーヌのターニングポイントがここであった様な気がする。
つまり、その少年こそが、レント・ファイナであった。
もちろん、ロレーヌは唐突に何を言ってるんだ、このおっさんは、と思った。
いきなりそんなことを言われる理由がまるで分からなかった。
そんなロレーヌの心の内を理解してか、その中年の男は言った。
「こいつはまだ駆け出しで、色々と経験を積ませてやりたくて、いつもアズールの森に一緒に分け入って素材採取をしてるんだが、今日は俺の方がちょっと予定が立て込んでてな。代わりに連れてってくれる奴を探してたんだ。それで、嬢ちゃんならちょうど良さそうだと思ったんだが、どうだ?」
かなり無茶な話である。
いきなり連れてけもないし、おそらく話す内容からして、少年のランクは銅級以下だろう。
つまり、銀級相当の実力があると判断されたロレーヌからすれば、足手まといだ。
だから断ろうと思ったのだが、中年の男は、
「なに、別に依頼料を折半とは言わねぇ。こいつを連れてくだけでいいんだ。さっき受けたの採取の依頼だろ? こいつにも採取させれば報酬は増えるぜ。あんたの全部取りでいい。それに加えてただの荷物持ちもやってくれる。だから、な。頼むよ」
と、かなり押しが強く、まるで引く気がなさそうだった。
最終的にロレーヌは仕方なく、うん、と言い、レントと共に依頼をこなすことになったわけだが、この後、彼がいて良かったと心から思うとは思いもしなかった。
◇◆◇◆◇
アズールの森は広く、多くの動植物が存在する自然の要塞のような場所だ。
ロレーヌは本から得た知識から、そのことを良く知っていたが、実際に見てみるのと、読んでみるのとではこれほどまでに違うのかと驚いたものだ。
というのは、まず、ロレーヌは森の中をさして歩けなかった。
体力がないわけではない。
むしろ、十四にしてはある方だし、身体強化系の魔術もある。
けれど、森の歩き方、というのにはコツがあり、ただただ歩いているとどんどん体力を奪われて、最後には疲労困憊になってしまうのだということを初めて知った。
それなのに、自分よりも遥かに低級の冒険者であるはずのレントはまるで疲れた様子など見せず、座り込むロレーヌにどこからともなく飲み水を調達してきて手渡すのだ。
また、彼の腰に下げてある袋になんとなく目をやってみれば、いつの間に集めたのか数々の薬草類が摘まれて入っている。
しかも、一つ一つ見せてもらえば、学者であるロレーヌから見ても完璧な処置の施された摘み方、掘り出し方のされているものしかない。
ロレーヌが人に頼んで薬草類を調達したとき、ここまで完璧に処置されたものは少なかったことを思い出した。
魔物に出会った時もそうだ。
ロレーヌはこの森の探索するそのときまで、魔物とまともに戦ったことがなかった。
もちろん、大博士として、魔術は十分に実戦レベルの威力を持つものを多数使うことが出来たが、ロレーヌがどこかに移動するときは必ずだれかがついてきて、ロレーヌが魔術を使うまでもなく、他の誰かが魔物を倒してくれていた。
だから、魔物と初めてまともに相対したとき、ロレーヌは息が止まって何もできなかった。
――これほどまでに恐ろしいものなのか。
端的に言って、ただ、それだけを思った。
他の何も――戦おうとか、魔術を使わなければとか、そんなことは頭の端にすら登らなかった。
そして、身動きすらもとれなくなった。
そんなロレーヌに、
「……ロレーヌ! 火弾だ!」
レントがそう声をかけてくれなければ、ロレーヌはそこで永遠に動けずに、そのまま終わっていたに違いない。
ただ、指示を出されたから、その通りに動けただけで、あのときのロレーヌはでくの坊以外の何物でもなかった。
強力な魔術によって黒焦げになった魔物を目の前にしながら、茫然とするロレーヌに、ほとんど戦闘経験がないことを知ったレントは、彼女に事細かに魔物との戦闘の心得や、実際に戦闘になったとき、魔物がどう動くのかを教えてくれた。
ロレーヌは賢い。
並ぶ者がないほどに、賢い。
だから、レントの教えたことを乾いた土のごとく、物凄い速度で吸収していったが、それもこれも、最初の戦いでレントのお陰で生き残ることが出来たからだと深く思った。
受けた依頼で集めるべき素材――薬草についてもそうだ。
本で読んだ内容によれば、生えている場所はかなり限定されていて、見つけるのも容易だと言うことで心配していなかった。
けれど、実際に探してみればまるで見つからない。
やっと見つけたかと思えば、半刻の時間をかけて一本だけしか見つからない。
その結果に、あの本の作者、次に会ったときはぶん殴ってやる、と思ったくらいだ。
それなのに。
それなのに、である。
微笑みながら、森の中を、ロレーヌの後ろについて歩いているレントの腰の薬草の数は振り返るごとに、ガンガン増えていっているのだ。
しかもそこにはロレーヌの探していた薬草も沢山ある。
つまり、ロレーヌが通った場所には確かに生えていたのに、すべて見落としていたということに他ならない。
ロレーヌはそれに気づいた時、いかに自分が見ていた世界が狭いものなのかを知った。
そして、レントに、戦闘のいろはに加え、冒険者としての基本や、植物の採取の仕方、薬草の生育場所など、どうか教示してくれないか、と頼み込んだ。
レントはそれに快く答えてくれ、ロレーヌはその日の依頼をなんとか日暮れまでに完遂することが出来たのだった。
 




