第137話 下級吸血鬼と戦慄
戦慄が走ったのは、三か所目の採掘場所を後にして、そろそろ戻ろうか、と思ったその時の事だった。
色々と歩いて、この大広間の構造が分かって来て、俺が採掘をするために歩いているフロアと、その下にもう一段、階段状にフロアがあるようだ、というのが見えてきた。
あるようだ、というのはやはり暗くてあまり見えないからで、その下の層のフロアに何があるのかはしばらくの間、分かってはいなかった。
ただ、一応、何があるのかは気になっていて、ちょうどよく、三か所目の採掘所を照らす光が、僅かに下の層も照らしていることに気づき、俺は崖の縁にくっついて、落ちないようにしながら下のフロアを見下ろしたのだ。
そうしたら、そこには化け物がいた。
僅かに漏れ出る光は、ずっと下のフロアの地面を照らしている、と思っていたのだが、その地面はよく見ると、緩やかに動いていたのだ。
俺の目は、暗闇でも生き物の存在を感知する。
しかし、例外もあるらしく、力の差がありすぎるとその能力は発揮されないと言うことがそのときはじめてわかった。
一体何がそこに、と思ってしばらく観察していると、その全容が徐々に明らかになっていく。
ざらざらとした岩のように見えるそれは、ある一体の大きな存在の肌であり、それがどこまでも続いているのだと。
そしてふっと、光が、その存在の顔と思しき部分を照らした。
俺と同じくらいの大きさの目がそこには見えた。
この時点で、逃走すべきかどうか迷ったが、その目は閉じられており、どうやら眠っているらしい、ということが遠目からでも分かる。
ただ、それでも……恐ろしい。
あれには絶対に挑めない。
今の俺には。
ここに俺がいる、ということは絶対に感じさせずに、そそくさと、この広間を後にしなければならない、と心の底から思った。
なんだかんだ、ここまでの道行きで俺がまだいける、と思って進んできたのは、実際にそこまでの危険はないと知っていたからだ。
魔物の種類や強さ、罠の多寡、それ以外の様々な危険について、ここに来る前に調べている。
そこから考えて、総合的にまだいける、と思っていたに過ぎない。
けれど、この下にいるのは……。
そういう判断をするまでもなく、確実に無理だと断言できる、そんな存在だった。
つまりは……。
――大地竜。
その容姿は、蛙の顔の部分に髭と理知的な瞳を取り付け、背中部分にはその巨体に見合わない小さな翼を取り付けると、その姿となるだろう。
しかし、その大きさは蛙などとは比較にならない。
四、五十メートル近い……いや、体積が物凄いので、もっと大きく見える。
あの体で暴れまわったら、街一つくらい一時間も持たずに粉々に破壊されるだろう。
実際、怒り狂う大地竜により破壊された町や村、それに国はいくつも伝説で伝えられている。
ただ、あの巨体でただ暴れるだけではなく、あれは地震を起こすのだ。
地を揺らし、建物を倒壊させ、街を破壊する。
逃げ惑う人々には岩を空から降らせ、それすらも逃れた幸運なものはその手下の餌にする。
あんなものがいるなんて……。
情報にはなかった。
なぜだ。
あれだけデカい存在がいれば、誰も知らないと言うことは……。
そう思って、ゆっくりと遠ざかりつつ観察していると、ぱちり、と突然目を開き、そして、ごごごごご、と轟音を立てて大地竜が動き出した。
やばい……ばれたか。
ここで俺の人生は終わりか。
あのとき、《龍》に出遭ったときと同じような感覚が体を襲う。
諦めと、どことなく感じる解放感と、それから伝説クラスの生き物に出会えた感動と。
どれをとっても中々に得ることが出来ない経験で、まぁ、このまま死んでもそれはそれでいいのかもな、と心のどこかで思ってしまう、そういう感覚が。
しかし、当たり前だが俺はこんなところで死ぬわけには行かないのだ。
神銀級になるのだから。
そのためにこんな体になっても何も諦めないでやってきたのだから。
けれど、だからといってこの状況で一体どうするのだ?
大地竜がそのぼよぼよとした腕を一振りしただけで、おそらく俺の命は尽きるだろう。
そこには、不死者だからどうとか、そんなレベルではない格の差があった。
何も……何も、出来ない。
ただ、あの生き物が、俺には決して気づかずに、もしくは気にも留める価値のない、矮小な生物であると認識して無視してくれることを祈る以外には、何もだ。
命無きこの身に、心臓の音が聞こえる気がした。
冷汗が、肌を伝っているような気も。
震えはカタカタと体を伝わっていくが、しかしどんな音も立ててはならぬと、死ぬ気で、そう、死ぬ気で抑える。
――すると。
一瞬、目が合った気がした。
が、気のせいだったのだろう。
大地竜はゆっくりと踵を返し、それから地面を掘って、その体を深く深く沈めていく。
地面と言っても、岩山なのだから、土ではなく非常に硬い岩のはずなのだが、そんな事実などまるで存在しないように軽く掘っていく……。
流石は大地竜というところだろうか。
俺はと言えば、それを、身を潜めつつ黙って見ていることしかできない。
岩がたまに吹き飛んでくるので、避けたり、盾を張ったりするので忙しくもあった。
さっき地亜竜に放たれた岩の槍よりも威力があるぞ……ヤバすぎる。
神銀級はそれこそ、ああいうものと一対一でやりあえると言うのだから、その遠さが身に染みるが……。
いつかは倒してやるさ。
いつかは。
そう深く思った。
◇◆◇◆◇
なるほど。
そう思ったのは、大地竜が去った後の、静寂が支配するその場所で、先ほどまで強大極まりないその存在がいた場所を観察したときだった。
今までそこには確かに大地竜がいたはずなのに、そんな事実などまるでなかったかのように、ただ、岩が転がっている空間があるだけだ。
この状態が常だと言うのなら、大地竜の情報がまるでないこともうなずける。
もしかしたら出会った者もいたのかもしれないが、すべてやられてしまったか、あまりの恐ろしさに口をつぐんだかという所だろう。
俺だって不死者として、若干、人とは異なる精神をしていなければ、今頃まるで動けなくなって漏らしていた可能性もないではない。
それくらいに恐ろしかったのだ。
その存在の迫力は、これだけ離れていても肌にびりびりと伝わってくるほどだったし、魔力の大きさは向こうを湖だとすれば、俺などコップ一杯の水にもならないようなレベルだった。
単純な体の巨大さだって……俺が剣を振り回して戦ったところで、向こうはつま楊枝で刺されたくらいにしか感じないのではないだろうか?
まともに傷つけられる気は、まるでしなかったのは言うまでもない。
あんなものに出会って平静でいられる冒険者など、それこそ最低でも白金級はなければ……。
この第四階層で狩りをしているような者など、一たまりもあるまい……。
はぁ。
今日は運が良かったのか悪かったのか。
死ななかっただけ、良かったな。
これからはもう少し、気を引き締めてやらなければならない。
情報を集めたからと言って、あまり過信するのはやめることにしよう……。
帰ろ帰ろ。
今日はもうやる気でないわ。
家に帰って、安全なところで布団にくるまって眠りたい。
ロレーヌにホットワインを作ってもらおう……そうしよう……。