第118話 聖女ミュリアス・ライザ
ロベリア教、という宗教団体がある。
これは、マルトの住人の感覚からすると、ヤーラン王国では目立った存在ではないが、西方の大国において大変な権勢を誇る宗派の一つで、一応、マルトにも教会があるが、信者の数は多くない。
マルトにあるのは、マルトにおける信者に見合った程度の小さな教会で、しかし聖水については他の追随を許さない高品質なものが多く売られている。
そんな宗教団体である。
この評価は、概ね間違っていない。
ただし、現実を知っているわけでもない。
確かにロベリア教の信者はヤーラン王国には多くはないが、その組織の巨大さは、信者数が少ないことを理由にヤーラン王国における諜報活動を鈍らせたりはしない。
つまりは……。
「……都市マルト、か」
ひたすらに走る馬車の窓から、ちらりと覗く景色は見慣れたアルス聖王国のものとは異なり、どこか整えられていない野性を感じさせる。
これから向かうという辺境国家ヤーラン王国辺境都市マルトもまた、そのような人々が住んで逞しく生きているのだろうか。
ヤーラン王国は初めてではないが、以前来た時に寄ったのは首都とその周辺のいくつかの街や村だけだ。
ここまで中心部から外れた地方にやってくるのは初めてで、余計に新鮮に見えるのかもしれない。
ロベリア教の聖女ミュリアス・ライザはそんなことを思いながらその場所を目指していた。
物思いにふけりつつ、馬車の外を眺めるミュリアス、その輝かんばかりの銀色の髪に、水晶のような紫の瞳は、彼女のその立場に見合った神秘性を与えている。
ロベリア教に限らず、神霊の加護を受け、聖気を操れる特異能力者である聖者や聖女は数多く存在しており、ミュリアスもまた、そんな聖女の一人だ。
彼女に加護を与えた神は、ロベリア教が信仰する女神である唯一神ロベリアであり、その力は絶大である。
この世界を創造し、ありとあらゆる存在を作り出した女神ロベリア。
しかし、彼女の加護を受けた者が使うことの出来る能力は各々異なる。
例えば、ミュリアスのそれは、治癒と浄化に大きく特化した力であり、その気になれば街一つを包み込める治癒の光を降らすことすらも可能だ。
もちろん、それだけ派手なことをすれば流石のミュリアスも立ち上がれなくなってしまうだろうが、それだけのことを出来るというのは驚くべきことである。
しかも、これでミュリアスは未熟であるとされる。
ロベリア教の本部にいる他の聖者、聖女の中には、ミュリアスを鼻で笑ってしまいそうになるほどの力の持ち主が何人もいるのだ。
だからこそ、ミュリアスは驕ることなく勤めを果たしてきた。
女神ロベリアのために、ロベリア教の教えによって世をあまねく光で照らすために、ひたすらに信仰を説き、治癒の加護を与える。
そのためにあらゆる街々を回り、その力を振るってきた。
これから向かう、都市マルトについてもそうだ。
先日、他の宗教団体の聖女が都市マルトを訪れ、住民に治癒の加護を振りまいたことは伝えられている。
ヤーラン王国において最も信仰されている東天教の聖女ではなかったようだが、むしろそのことがヤーラン王国において様々な宗教が活動し始めていることを教えていた。
ヤーラン王国は難しい土地だと言われて久しい。
東天教という古くから存在している宗教団体が国民のほとんどに受け入れられ、信仰されていて、今更、外国を起源とする他宗が入り込む余地がないからだ。
それに加えて、東天教の教義は独特で、他宗と比べると信仰に対する負担が薄く、またそれに属する僧侶たちも極めて高潔で質素な生活を旨としているというのも地味に他宗にとっては痛かった。
なにせ、どことは言わないが、多くの宗教団体はその上層部はある程度腐敗しており、信仰に当たってはまず寄進を求めることが多く、したがって自らの宗教は素晴らしいと胸を張って宣教出来なかったのだ。
もちろん、そんな状況であっても、自分のところの内情は隠しつつ、教義を広めるべく活動する神官や僧侶たちはいたが、ヤーラン王国の者たちはその矛盾を鋭く見抜き、指摘してきた。
結果として、どの宗教団体も、大して自らの教義を広めることが出来ず、ヤーラン王国の東天教の独占は未だに続いている。
けれど、最近この事情も変わって来た。
世の中に魔物が増えてきているのだ。
徐々に世界を包む闇が大きくなってきており、その不安はヤーラン王国も無縁ではいられなかった。
救いを求める国民の声は大きくなってきていて、分かりやすい救世を叫ぶ宗教団体に人が流れ始めている。
東天教は、そういうところで自己努力をまず求める、ある意味で極めて厳しい教えであるため、魔物の脅威を目にすると信仰に揺らぎが出るらしかった。
世界は危機に陥っているが、まさにそういうときほど宗教にとっては書き入れ時である。
この危機を、利用するのではなく、神が与えた試練と考えて、その試練を乗り越えるためにはロベリア教を信じることこそが最も正しい、というわけだ。
なるほど素晴らしい話である。
本気でミュリアスはそう思っているのかと聞かれると微妙なところではあるが、ロベリア教に属する聖女としては、それを正しいものとして扱うのは当然の話だった。
ただ、それでもひどく面倒な気持ちもあった。
特に最近は……。
聖女として言ってはいけないことだろうが、果たしてロベリア教は正しいのだろうか?
唯一神ロベリアというが、自分に与えられた加護は本当にロベリアのものなのだろうか。
ロベリア教は、ありとあらゆるこの世に存在する加護を、ロベリアがその存在の形を変えて与えたものだという考えに立っている。
たとえば、他宗における風の神ヴァンスルトの加護は、ロベリアがその形を変えてヴァンスルトの形態をとって与えたのだ、と考えるのだ。
数百数千の顔を持つ、全てであり一つの神、ロベリア。
その加護は、加護を与えられる者の性質に合わせて、ロベリアがその力を受け入れやすいようにして与えてくれると説明する。
けれど、本当はいかなる神の加護なのか……。
神霊の加護は、その加護を与えた者がいかなる神なのか、調べることは特別な場合以外には出来ない。
特別な場合というのは、神殿などで、神が直接声をかけ、加護を与えた場合である。
その他には、何か特別な加護が得られそうな行為をした直後に、聖気の芽生えを感じる、ということもある。
しかし、それ以外は、いつの間にか備わっていた、というのが普通で、それが大半なのだ。
ミュリアスもその口で、ある日、怪我をした人を見たとき、なぜか自分には治せるような気がした。
それだけだ。
それなのに、ある日突然やってきた神官に、貴方は唯一神ロベリアの加護を得たのです、と言われても胡散臭いとしか思えないのが普通のように思う。
けれど、ロベリア教の聖者や聖女は、皆、ロベリアを信じているのだ。
それこそ、狂信、とまで行くものは少ないが、当然のものとして、である。
自分が異端だと察するのに時間はかからなかった。
その心の内は、きっと態度にも出ているだろう。
だからこそ、最近は監視役までついている。
目の前に座っているのは、その監視役であるところの、神官ギーリである。
鋭い目つきをしたその若い男は、むしろ暗殺者ではないかと疑いたくなる顔つきと動きであり、その想像がそれほど間違ってなさそうなことは神官の癖に腰に重たい刃物をつりさげていることから察せられる。
余計なことをしたらお前、分かっているな、と言いたげなロベリア教本部の意志を感じてげんなりするミュリアスであった。
「……今回の訪問の目的は、何だったっけ?」
それでも重い空気に耐え切れず、先ほどからぽつぽつ独り言のような、話しかけているような、微妙な言葉を口にしている。
さきほどは無言で流されたが、今回は答えてくれるらしい。
ギーリは言う。
「ロベリア教の布教のため、治癒と浄化をすることを告げ、マルトの市民を集めて説教をしていただく予定です」
「説教……私より、貴方がやった方がいいんじゃないの?」
このやる気のない態度に、ギーリは首を振り、
「そのようなことは、街に入られてからは口にしないようにしてください。ロベリア教の聖女たるもの、信仰に対する疑念を生むような言葉は差し控えるべきです……それに、本部の意向もお考えください。その身のために」
そう言った。
堅苦しい男である。
しかし、その話している態度の中に、若干の優しさが感じられたのでミュリアスは驚いた。
「……もしかして、少し心配してくれていたりとかするのかしら?」
「貴方はあまりにも発言が酷い。フォロストロアのようにされるのではないかと、気が気ではありません」
フォロストロアはかつて人々を苦しめる強大な竜を退治したが、その宴の席で酔い過ぎ、王の前で王をあからさまに侮辱する発言をしてしまい処刑された愚かな英雄の事である。
よくある格言話だ。本当にいたのかどうかは分からない。
しかし、そんなものにたとえられていい気はしないが、今の状況を考えると当たらずとも遠からずなのが何か面白かった。
「ふふ……まぁ、気を付けることにするわ……」
微笑みながらそう言ったミュリアスに、ギーリは重々しく頷き、
「そうであることを祈っております」
と何の感情もこもっていない声で呟いたのだった。