第1話 プロローグ
――やばい、死ぬ。
俺がそう思ったのは、目の前に迫る巨大な魔物の真っ赤な口がぱかりと開いて俺に向かって突進してきたのを確認した、その時だった。
大陸の端っこに位置する辺境国家、ヤーラン王国の端っこにある小さな都市マルト。
その近くにある低位迷宮《水月の迷宮》で、しょぼい魔物を狩りながら日銭を稼いでいた俺こと、銅級下位冒険者、レント・ファイナは、その日もまた、いつもと同じように迷宮の浅い層で、ひたすら、骨人やらゴブリンやらを狩って、素材やら小さな魔石やらを収集していた。
それが毎日の日課で、今日もいつもと同様に夕方ごろになったら街に戻り、冒険者組合に素材を納めて数日暮らせる程度の賃金をもらう。
そのつもりだった。
それなのに、だ。
そいつは唐突に出現したのだ。
毎日歩いている迷宮だから、俺はまず、この迷宮の中で迷うことは無かったのだが、その日はなぜか、いつも歩いている通路に、普段とは異なる通路があることを発見してしまった。
これが、運が悪かった。
そう、悪かったのだ。
本来なら、そんなものは無視すべきだ。
冒険者は、冒険をする者のことを言うが、それは何の計画性もなく無謀に突き進む者のことではない、とされている。
しかし現実には、何も考えずに突っ込む人間の方が多く、俺もまた、その例に漏れない愚か者だった。
なにせ、かなり昔に発見され、探索されつくした、と言われていた迷宮である《水月の迷宮》に、新たな通路や部屋が見つかったとなれば、これは大発見である。
もしかしたら高位魔導具や魔武具の類もあるかもしれないし、またそうでなくとも、ある程度探索してマッピングしておけば一稼ぎすることもできるだろう。
そんな、ありがちな馬鹿な考えを持って、俺はその通路に足を踏み入れてしまったのだ。
結果として、しばらく歩いていったところにあった広場のような空間で、巨大な魔物と相対することになった。
それは、俺の見間違いでなければ、龍であった。
龍、それは魔物の最高位であり、一般的には白金級のさらに上、神銀級の冒険者が数人でかかっても敵わないと言われる化け物だ。
その見た目は様々で、一般的な竜を巨大化させたようなタイプもいれば、細長い蛇のような形態のもの、また蛙を巨大化させたようなものもいるらしい。
らしい、というのはそれと遭遇した者は、よほど運が良くなければ生き残ることなどできず、また滅多に人前に姿を現すことがないので、遭遇することそれ自体が珍しいため、はっきりとそれと分かって確認できたものが歴史上、数えるほどしかいないからだ。
その強さは、世界に四体しかいないと言われる魔王に匹敵し、またその存在は生き物よりもむしろ神に近いとまで言われる化け物である。
つまり、俺のような万年銅級冒険者がかかっていったところで、小指一本すら使われずに敗北するのが確定している相手であるということだ。
そんなものが目の前に現れて、驚かないわけがない。
また、まともに戦おうとも思う訳がなかった。
だから、俺は即座に逃げよう、逃げなければ死ぬ、と考えて足を動かそうとした。
――けれど。
相手は流石に化け物だった、というべきか。
俺は逃げようとしたところで気づいた。
気づいてしまった。
――足が、動かない。
いや、体中、どこを動かそうとしても動かないのだ。
どういうことだ、と一般人なら思うだろう。
しかし、俺にはこの現象に覚えがあった。
あまりにも実力差がある者同士が対峙すると、このような状態になる、と学んだことがあるからだ。
強大な魔力によって威圧され、体の自由が全く利かなくなる。
そのようなことが、ごくまれにだがあるのだ、と。
これは、まさにそれだった。
俺は龍の圧力に耐え切れず、完全に身動きが取れない状態になっていたのだ。
それを理解したとき、心の底から、勘弁してくれ、と思ったが、そんなことを考えたところでどうにもならない。
そのときの俺にできたのは、ただただ、目の前にいる魔物を見つめながら、どうか俺のことを食わないでくださいと心の中でお願いすることだけだった。
しかし、現実は甘くはなかった。
その龍は、俺を確認するとその口を大きく開き、そしてそのままの勢いで向かってきたのだ。
――あぁ、食べる気だな。
命の危機に瀕していながら、俺はのんきにそんなことも考えた。
やばい、死ぬ、とも考えたのだが、どちらにしろ、この状況はもはや、俺にはどうにもできない。
なにせ、身動きがとれないのだ。
十五のとき、冒険者になって、十年。
いつの日にか白金級を越え、数えるほどしかいない神銀級まで上り詰めることを夢見ながら冒険者を続けてきた。
しょぼい依頼で日銭を稼ぎながら、それでも夢を見ることは今でもやめておらず、毎日依頼が終わった後は、訓練を続けてきたのだ。
それなのに、こんなところで終わるのか。
あっけないものだな。
酷く悔しい気持ちと、これで終われるのかという解放されたような気持ちの両方が俺の心に満ちてきて――
そして、俺の体は、龍の口の中に収まったのだった。
◆◇◆◇◆
それからしばらくして、奇妙なことに、俺は目覚めた。
そう、目覚めたのだ。
龍に食われ、間違いなく死んだと認識したのにも関わらず、俺は目覚めた。
そして、気づいた。
――いやいやいや。これは、ありえないだろう?
俺は目が覚めた直後、状況を確認して、心の底からそう思った。
何があり得ないか。
それは、俺の体の話だ。
手を見てみる。
すると、そこに、かつてあったはずの肉がない。
皮膚がない。
そこにあるのは、白くて細い骸骨のみ。
それだけなのだ。
そしてそれは俺の手だけに限らず、体全体がそうだった。
足は、肉も皮膚もない骨。
ふとももも、同様。
二の腕も、おんなじ。
顔は……顔は分からないが、たぶんこの調子だときっと同じなのだろう。
つまり、俺、銅級下位冒険者、レント・ファイナは、いつの間にか冒険者から、骨人へとクラスチェンジしていた、ということだ。
――ありえない、よな?
◆◇◆◇◆
それにしても、これからどうしたらいんだろう。
俺がまず、一番最初に考えるべきはそれだった。
とりあえず、龍に食われたのは間違いないとして、それでもこうして生きているだけ、僥倖だろう。
いや、生きてるのか?
骨人と言えば、不死系の魔物の一種だが、すでに死んでいると言われている魔物だ。
教会の司教とか、神官なんかの浄化系魔術で消滅させるのが最も簡単だと言われる、非常に弱い魔物である。
浄化魔術で消滅させられるのは、骨人が神の摂理に反した邪悪な魔物であるから、とされていて、その神の摂理とは、“死んだものはこの世に存在してはならない”というものである。
その摂理に反抗して現世に残っているから、浄化魔術で消滅させられる、というのが一応の理屈らしい。
これが正しいのかどうかは別に神官でも司教でもない俺には分からないが、一応、この理屈の中では骨人は死んだもの、とされているということが俺にとっては重要な事実だろう。
俺は、死んでいるのだ。
死んでいる状態で、この世に存在している、ということだ。
これは、非常に、まずい。
というのも、先ほども言ったが、死んでいるのにこの世に存在している、というのは神の摂理に反しているらしいからだ。
このまま街に戻ってしまうと、いくら喋って俺はレント・ファイナだと主張しても、とりあえず浄化、ということになってしまうだろう。
それでは俺の存在は完全に消滅してしまう。
それは、絶対に嫌だった。
骨骨の状態とは言え、俺はまだ、生きている。
たとえ骨人だとしても、死んでいるのだと定義される存在なのだとしても、俺の意識の上では、俺は生きているのだ。
だから、みすみす殺されに街に戻ることは出来ない。
しかし、ではどうするのか。
それが問題だった。
ずっとここに住み続けるのか。
しかし、ここは迷宮である。
魔物を討伐するために冒険者がやってくるし、いくら辺境の迷宮とは言え、俺よりも強い奴もそれなりに居るのだ。
彷徨っていたら普通に退治されてしまう。
どうすれば……。
と、考え込んだところで、そういえば、と思うことがあった。
俺は、今、魔物なのである。
魔物というのには不思議な性質があって、年や経験を経た魔物は、徐々に上位の存在へと進化していく、というのがあった。
俺が果たして魔物なのかどうか、それははっきりとは分からないが、とにかく見た目上は、魔物の骨人と全く同じなのだ。
となると、俺にも出来るんじゃないか?
存在進化。
と、ふと思ってしまった。
魔物の研究書は職業柄、それなりに読んだりしてきたが、その中で、骨人は存在進化すると、屍食鬼になる、と言う記述を読んだことがある。
もちろん、屍食鬼も不死系の魔物、いわゆるアンデッドモンスターであるわけだが、骨人よりは人間に近い容姿をしている。
肉もついていて、まぁ、ローブとかマスクとかで隠せば、なんとか人間と強弁できなくもないんじゃないかな、と思う。
そうすれば、街にも行けるし、色々と知り合いに説明できる機会を得ることも出来るかもしれない。
かなり荒唐無稽な思い付きであることは分かっているが、しかし、今の俺に出来ることはそれくらいしかなかった。
だから、俺は、よし、と思った。
とりあえず、存在進化を目指そう、と。
この迷宮で、屍食鬼になろう、と。