続・私と雀
この作品は『私の雀』の続編です。初めて読まれる方はそちらのほうをお読みになってからにしてください。
麗らかな朝の日差しが部屋に届いて、私はふと目を覚ました。
「ん……」
最初に、白地に黒の斑点をいくつも描いた情味の無い天井が見えた。
視線を横に逸らすと開いた窓があって、その向こうには、花を咲かせた金木犀が植わっている。その葉の隙間から零れた陽の光が、私の体を柔らかく照らしていた。
そろそろだろうか、あのお節介焼きが来るのは。
この間はいつになく饒舌になってしまっていて、気付かずに失礼な事を言ってしまった。それでも彼は静かに聴いていてくれていた。いつか無礼を謝らなければ、そして聞いてくれることへの感謝も。
そんなことを考えていた折、扉の向こうから騒がしい足音が聞こえてきた。それは段々と近づいて、扉の前まで来ると急に止まった。
「お早う、××××」
それまでの急ぎ様が嘘のように、彼はゆっくりと扉を開けた。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「……」
それを見た私は、なぜか言葉を失ってしまった。いつもなら返事をするのに、軽く息を弾ませる彼を見て、無性に罪悪感が沸いてきた。
「……気分はどう?今日は行きのコンビニで君の好きな××××を買ってきたから食べるといいよ、あと、花も持ってきたから、代えとくね」
彼は××××の入ったビニール袋をベッド横の棚において、花束を花瓶に差し替え始めた。
「体、起こして」
私はそこでようやく言葉を発することができた。
「ああ、うん。ちょっと待って」
唐突な私の言葉に戸惑いながらも、古い花束をゴミ箱に棄てて戻ってきた彼は、私を抱き上げるように起こした。優しく、そつが無く。
「今日はどうしよっか?天気も良いし」
一通りの世話を終えた彼が尋ねた。少しだけ表情が綻んでいるように見えた。
「……体調が良いから、外に行きたい」
私は恥ずかしくて、わざと彼の反対の方を見て呟くように言った。
「え……」
彼はあっけらかんとした様子で私を見つめる。後ろ髪を右手で掻いて間が悪そうな顔をした。
「えーと。今は歩ける?車椅子を借りてこなきゃいけないから」
「借りてきて」
私は歩けるのに、嘘をついてそう言った。彼と肩を並べて歩くのは気恥ずかしいから。
「じゃあちょっと待ってて、五分くらいしたら戻ってくるよ」
そう言った彼の声は、どこか嬉しそうだった。
思いのほか彼は三分で戻ってきた。やっぱり何においても手抜かりが無い。
「それじゃあ、移すね」
今度こそ、彼は私を完全に抱きかかえ、車椅子に乗せた。
「よし、荷物は持ったな、じゃあ行こう」
彼は自分に言い聞かせるように言うと、車椅子を押して部屋を出る。興奮しているのか少し押す力が強くて、私は内心驚いてしまった。でも、言わなかった。私も興奮していたから。
扉の向こうは長い廊下なっていて、部屋の向かいは一面のガラス張りだ。北側だから、眩しいわけではないけれど、薄暗い部屋と比べると随分明るい。
廊下を渡って、小さな玄関に出る。スロープを降りて、私と彼は外に出た。
「うわあ……」
目の前に広がる、いつもと変わらないはずの情景に、計らずも私はそんな感嘆の言葉を口走っていた。
東の空から差し込むオレンジがかった白い陽光が、世界を照らしている。目の前の建物、植えられた木、人気の無い朝の道、遠くにそびえる山々、そして、ここにいる私と彼を、照らしている。
届く限りの最果てまで太陽は光を与え、巡り行く世界に朝の訪れを告げていた。
「朝に外出るのは久しぶりだもんね」
彼は、満足そうに言った。知らずのうちに私はそれを肯定する。
「うん、綺麗だよ。何でだろう、以前は毎日見てる気がしてたのに、実際に肌で感じるとこんなに違うなんて」
世界がずっとこのままなら良いのに、いずれやってくる悲哀の夕刻も、静寂の夜も、どうせそこに生きる私に付き纏うのは悲しみだけなのだから、せめて僅かな幸せを感じられている今をずっと生きていけたらいいのに。
この風景を目に焼き付けるように、私は辺りをゆっくりと見回していく。そしてふと、あの金木犀が目に入った。
「あ……、あれ」
彼は私の呟きを聞いて、私の視線の先を見た。そこに金木犀があって、彼は私の言わんとしている事に気付いた。
「ああ、そういえば。ここ数日に花が咲いたんだっけ。××××はあの木好きだもんなあ」
彼は車椅子を押して、木に向かった。初めて真下で見上げた金木犀は存外にも背が高く、橙色の花弁が緑の葉の間に覗いている。
「綺麗だね」
「うん、綺麗だ」
二人で長い間金木犀を見上げた。不意に向かいの道路を走った車のエンジン音で二人とも我に返った。私は首が痛くなっていて、それを和らげるように下を向いた。そして、それを見つけた。
「あ……」
俯いた視線の先に雀がいた。翼の無い小柄な雀。それは、目を閉じて横になり、死んでいた。
「可愛そうに……落ちちゃったのかもしれない」
彼が残念そうに言った。優しく雀を手のひらで包んで持ち上げた。
「どこかに埋めてあげよう、病院の裏なら場所もあるし」
彼は勤めて穏やかに言って、車椅子を押し始めた。その声音になんだか私は寂しくなって、目を閉じた。そうして、話し始めた。
「私、間違ってたよ」
「何が?」
彼は怪訝そうな顔で私を見た。
「私は私と同じ境遇の雀を見て親近感を感じた。でも、今はもう違う。私は死んだことが無いから、雀の悲しみはわからないもの。」
「……」
「そして、雀の運命が最初から決まっていたのだとしたら、私と雀はもっともっと前から違う存在だったんだと思う」
彼は終始無言で私の言葉を聞いていた。
建物の裏手に回って、彼は土の柔らかいところを探し穴を掘り始めた。それを見つめていた私が、ふと口を開く。
「手の無い生き物は生きちゃいけないのかな」
「……そんなこと無いよ」
手を動かしながら彼は答えた。あまりにあっさり否定されたものだから、私は腹が立った。
「どうして?現に雀は死んでしまったわ、なんでそんな事が言えるのよ!」
声高に言った私を意に介さず、彼は雀を埋めていく。作ったくぼみに雀を置いて、土を戻し、それをさするように固めていく。そして、手についた砂を払って立ち上がり、私を見た。
「仮に、もし運命が手の無い生き物に死を与えるのだとしても、××××は死ぬことなんか絶対に無いよ」
「なんで……」
私はもはやすがるように弱々しく言った。私も死んでしまうのだろうか、そんな恐怖が私を襲っていた。
「雀には支えててくれる人がいなかったけど、××××にはいるだろう?」
彼は強く、はっきりとそう言った。
東に昇る太陽が、私たちを照らしている。温もりを帯び始めた朝の静謐な空気の中、彼を見ていた私の目が、変わり始めた。
(Fin.)
今回、この作品を書くにあたって、『くだらない話』という題名だった前作を『私と雀』という題名に変更しました。投稿後の題名変更ということもあり、すでに読んでくださった人に混乱を招いたことをここにお詫びします。