3回目 12歳 悪役令嬢の扇ことば講座 前篇
貴族の夜会は想像以上に騒々しい。
室内楽団は止まることなく流行りの音楽を奏で続け、あらゆる場所で人々の歓声とさざめきが沸き起こる。
その喧騒は隣の人の声も聞こえないほどの時もある。
しかし、どんなに騒がしい夜会であれ、淑女が大声を出すことは、私は理不尽だと思うが、はしたないことであることに変わりはない。
淑女は常に粛々とお淑やかに場の花でなくてはならない。
そこで編み出されたのが扇言葉だ。
淑女なら必ず持っている扇子を使って、相手に思いを伝える方法である。
いわゆる扇子を使ったジェスチャーだ。
例を挙げればこんな感じ。
扇子の先端を右頬に当てれば“はい”
扇子の先端を左頬に当てれば“いいえ”
他にも
扇子を右手で顔の前に持てば“私について来て”
左手で顔の前に持てば“お近づきになりたいわ”
といったものがある。
貴族の令嬢は必ず、社交界デビューする前にこの扇言葉を自分の母親なり家庭教師なりに習う。
誰もが知っている言葉を知らないのは恥であるし、逆に知らないでうっかり扇言葉になる仕草をして誤解を招いては後々、いざこざの種になるからだ。
だから流行のドレスの型を覚えるのと同じように、いかなる時でも使えて、意味を脊髄反射で分かるくらいになるまで毎日毎日、扇子の型を頭に叩き込む。
そしてある日、思うのだ。
「あれ?なんか色恋に関するジェスチャー、多くない?」
そして乙女は頬を赤く染める。
私も社交界に出れば素敵な殿方にこんな大胆な扇言葉を使うのかしら。
そう思いながら扇子で頬を横になぞるのだ。
扇言葉に色恋に関する仕草が多いのは必然だ。
貴族の夜会自体、華やかな円舞の裏で秘めた恋が花開くことなど茶飯事だし、何よりも恋に溺れた男女は二人だけの内緒話に、ことのほか熱心なのだから。
誘うような精密な模様のレースのドレスとひるがえる金糸の刺繍を施したコートの間を扇言葉が飛び交う。
“あなたに話しかけてもいいかしら”
“側に行ってもいい?”
“私のこと好き?”
もっとも男性は扇子を持つと軟弱者扱いなので、返事は手話か物陰にお相手の女性を引き入れての睦言になる。
中にはひっそりと夜の帳の彼方に消えて行く者たちもいたりする。
まぁ、そんな甘い駆け引きは人生3回目を現在爆進中の悪役令嬢リディシア=グランベルノさんにとって、舞台上の演劇を見るようなものなんだけどね。
傍観はすれども参加はせず!
何と言っても、3回目の人生は乙女ゲームのループを止めるべくヒロインにしっかり恋愛をしてもらうことが目的だ。
今回は社交の場も自分が楽しんだり婚活するための場所ではない。
一番の任務は攻略対象者の情報収集であるため、積極的に扇言葉を使う機会はない。
ただし!
どんな時でも例外は存在するものである。
新年第1日目の礼拝が終わった王城の一室、野ばらの間。
私の左隣には色気より食い気を絶賛優先中の王子様が、不機嫌そうな顔で3皿目のタルトを頬張っていた。
子どもだけのサロンとはいえ、私より年上のお姉さまお兄さまの何人かは、扇子をひらひらさせて恋の駆け引きを楽しんでいるというのに、乙女ゲームのメインヒーローは恋愛事に無関心だ。
いや、ヒロイン登場でやる気だして恋愛してくれるなら別に構わないのだけど。
それ以前にタルトの虜たる王太子、エリオリス=シュテインガルドに扇言葉なんて典雅な恋遊戯を解する甲斐性があるかも怪しい。
不意に、もし扇言葉のおの字も知らなくてヒロインとの恋の駆け引きに支障が出たらどうしよう、という不安が私の脳裏をよぎった。
ヒロインが必死に送る愛のサインを完全にスルーするヒーロー。
まずい、まずすぎる。
で、でも王太子なんて国の髄を集めた英才教育を受けているのだし、社交の所作なんて貴族の基本中の基本だし……あー、だけど8歳から婚約者のいる王太子に果敢にも愛のサインを送る気骨ある猛者な令嬢なんて聞いた事ない。もしいたらお友達になりたい、何それ超楽しそう。
いずれにせよ実践は未経験な筈だ。
そしてたぶん、超肉食アグレッシブ令嬢がいない今、この恋愛奥義を手合せできる人間は立場上、私しかいない。
いいだろうお前のため、そしてヒロインのために開いてやろうじゃないか、扇道場を!
「年末には雪が降りましたでしょう?私、お庭で雪うさぎを作ったんですのよ」
「それは見てみたかった。ユスティナ嬢と同じでさぞかし可愛らしいうさぎだったんだろうね」
「まぁ!ウィルフさまったら」
幸いなことに、妹のユスティナとウィルフ=ゼルカローズは私が参加していなくても話に花が咲いている様子。
エリオリスに扇言葉を送るなら、絶好の機会だ。
よし!
エリオリスがどれほど扇言葉を理解しているか試すなら今しかない!
私は扇を閉じて左手に持ち替えた。
エリオリスの視線が食べてるタルトから逸れた瞬間を狙って扇をくるくる回す。
意味はこうだ。
“私たち見られてます”
「はぁ?今更何なんだ。このテーブルの面子が揃えば誰だって見るだろ」
おおっ!伝わってる。
エリオリスから的確な回答が飛んできた。
確かに王太子とそれに次ぐウィルフと王太子の婚約者とその妹が集まれば誰だって見る。
次に私は左手の扇子を顔の前にかざした。
“あなたにお近づきになりたいわ”
「……いや、婚約者以上に近づくって……もう充分だろ」
くっ、一理ある。
しかし、これまでの受け答えからどうやらエリオリスは扇言葉の基本はちゃんと理解しているようである。
さぁ、ここからが本番だ。
扇言葉、恋愛編突入だよ。
閉じていた扇子を開いて素早くあおぐ。
“私は婚約してます”
「さっきから何なんだ。俺にそれを言ってどうする」
ふむ、それもそうだ。だって婚約の相手はエリオリスだ。
あとは……もっと、甘々な言葉も送っておこうかな。
速くあおいでいた扇子のスピードを緩め扇面を右手で触る。
“いつもそばにいたい”
「おい、からかうのはよせ。気味が悪い」
開いていた扇子を一度閉じてからまた、開いて閉じる。
“ひどい人!”
「お前が急に妙なこと始めるからだろ」
むむ。
完璧だな。
他に試しておいたほうがいいのは何かあったかな…………ああ、あれを試してみてもいいかもしれない。
私は閉じた扇子を逆さまにして持ち手の部分を唇に当てた。
ぶふぉ。
それを見たエリオリスが口に入ったラズベリータルトを吹き出しそうになる。
この扇言葉は一歩間違えれば自分自身も窮地に陥れる禁断の技。
エリオリスなら大丈夫だろう、と判断して試してみたが、案の定大丈夫そうだ。
挨拶程度の手の甲にキスもできない奥手が、このサインに対応できるとは思っていない。
理解しているか反応を見るだけ。
もし対応して来たら……うん……その時は両目を扇で横になぞろう。ごめんなさいって伝えよう。
咽るエリオリスの横でさりげなくデアンさんがグラスに水を注いだ。
エリオリスがグラスを受け取り、口をつける。私の方を訝しげにチラ見しながら。
再び、唇に扇子を当てると、びゅふっと水も吐き出しかけた。
「エリオリス?」
「お姉さま?何をなさっているのですか?」
さすがに普通に会話をしていた二人もエリオリスの異変に気がついた。
「な、なんでもない!」
「ええ。何でもありませんわ」
二人に微笑んだ後、サッとエリオリスの方を振り向き、唇に扇子。
あ、咳き込んだ。
面白いほど動揺するエリオリスにちょっと楽しくなってくる。
唇に扇子。
目が泳いだ!
唇に扇子。
フォーク取り落とした!
唇に扇子。
俯いた!
唇に扇子。
なんか震え出した!
「も、もうやめてあげて……エリオリスは瀕死だよ。この勝負、リディシア嬢の勝ちだから」
調子に乗って、本来の目的を忘れエリオリスを弄りまくっていると、肩を震わせ笑いを堪えるのに必死です、という程のウィルフに止められた。
いや、勝負してるわけじゃなかったんだけどなぁ。
「お姉さまの勝ち、ですか」
ユスティナまで目をキラキラさせて宣う。
あ、なんか勘違いしてなければいいけど。
「そうだねぇ。エリオリスがリディシア嬢の扇言葉に応えない限り、負けたようなものかな」
「それはお姉さまが申し込んだ挑戦状をエリオリス様が受け取らない限りエリオリス様の負け、ということでしょうか」
あ、こらウィルフめ。余計なことを。
そしてユスティナちゃん、それちょっと違うから!
後でちゃんと意味を教えておかないと、ややこしいことになりそうだ。何かの拍子で使われたら恥をかくのはグランベルノ家だ。
しかし、私はこの時すぐにユスティナに、私が使った扇言葉の意味を教えるべきだった。
そうすれば、この後起きた悲劇の一つを回避することができたのだ。
いや、そもそもエリオリスをからかったのが間違いだったのだ。
後で後悔しても、もう起こってしまったことは取り返しがつかないのだけれど。