The Previous Days 後編(9)
僕が牧師と、たまに当主の仕事と、そして稀に翻訳の仕事をしているうちに、彩乃は小学生も最後の年だ。本当にあっという間に大きくなってしまう。
彩乃が六年生になると同時に僕は翻訳の仕事をすっぱりと辞めた。ちなみに杉森さんと田中さんはあれから暫くして結婚し、田中さんは主婦業をしながらフリーランスで執筆者として活躍している。
杉森さんから見えている僕は三十代半ば。もう年齢をごまかすのも限界だった。
ちょっとばかり寂しいけれど、僕は「ま、いっか」と田中さんに教えてもらった魔法の言葉でやり過ごすことにする。
「俊哉くん」
おじいさんが僕を呼ぶ。さすがにおじいさんと暮らすのはお互いに慣れた。
「なんですか?」
僕は読んでいた本を置いて返事をするとおじいさんが、僕を手招きする。
茶の間で寝転がっていたんだけれど、起き上がって台所のほうへ行けば、机の上にパンフレットが山のように広げてあった。
「どうしたんです? これ」
おじいさんがにっこりと笑う。
「たまには家族水入らずで温泉旅行でも行こうと思って、旅行代理店で貰ってきたんだよ」
おじいさんはいくつかのパンフレットを適当に開きながら言った。日本のあちこちの温泉宿と旅行のコースが所狭しと写真付きで掲載されている。
「もうすぐ彩乃も夏休みだし、どうだい?」
「いいですね」
それから二人であちこちのパンフレットから、行く場所を探しはじめた。
「温泉に行きたいんですか?」
「そうだね。ちょっと腰が痛いんだよ」
おじいさんが答えて、無意識にだろうか、腰を摩った。
「近場だけれど、箱根なんてどうです? 昼間は観光できて夜は温泉」
僕の手元をおじいさんが覗き込む。
「ああ。いいかもしれないね。温泉だけだと彩乃が飽きるだろうし」
「彩乃はきっとどこでも喜びますよ。あまり旅行したことないし」
「そうだね」
箱根はいい案に思えた。近い上に湖で遊覧船に乗ったり、関所を見たりできる。
「じゃあ、そうしましょう。僕が手配しますよ」
「すまないね」
僕はパンフレットを見ながら、頭の中でコースを組み立てる。旅行会社には悪いけれど、宿だけ手配して自分たちで動き回ったほうが早いだろうな。
一泊二日の箱根旅行の当日。東名高速道路を走らせ御殿場インターチェンジで降りて箱根スカイラインへ。ほんのちょっとの距離なのに、お金を取るんだよなとは思いつつ、日本だから仕方ないと諦める。ヨーロッパでは都市間を結ぶフリーウェイが主流で、お金を払わなくても車が飛ばせる。日本は高速道路という名のもとに、ちっとも高速ではない速度で車を走らせる。
しかしながら…When in Rome, do as the Romans do.(ローマにいるときにはローマ人がするようにしろ=郷に入っては郷に従え)ということで、綺麗な風景が見られるなら奮発しよう…と、大した額ではないけれど、こちらのコースに決めた。富士山が見え、芦ノ湖が見え、楽しめるコースではある。
彩乃が後部座席で窓に張り付いているのを、おじいさんが嬉しそうに助手席からみて目を細めた。
「今日は綺麗に富士山が見えるね」
「そうですね」
僕は駐車場へ車を入れるためにハンドルを切りつつ、相槌を打った。料金所から少しいったところにあった「箱根・芦ノ湖展望公園」と書かれた場所からは、眼下に芦ノ湖が見える。
「わぁ~」
彩乃が駆け出す。湖なんて珍しくないだろうに。それでも初めての家族での旅行に浮かれているんだろう。
「富士山は、そばに住んでいても見えないときがあるそうだよ」
「そうなんですか?」
おじいさんの言葉に振り返れば、おじいさんは振り返って富士山を見ていた。
山の陰から綺麗に見える富士山。晴れていて本当に良かった。
「近くにあるのに見えないときがある…だから霊山なんて呼ばれるのかもしれないねぇ」
当然のことながら、クリスチャンであるおじいさんには霊山信仰はないわけで。無いけれど、自然に対して畏怖を覚えるのは変わりないのだろう。
ほぉっとため息を吐いてから、視線を湖のほうへ移した。一瞬、僕と目が合って、にっこりと微笑まれる。その笑みに含まれるのは、家族としての情だろうか。僕らは偽りの孫なのに。
そう仕向けたのは僕だけれど、ちくりと胸が痛くなった。その痛みを隠すように、僕は柵から身を乗り出して湖を見ている彩乃に声をかける。
「彩乃、そろそろ次行くよ」
「うん!」
彩乃が小走りで戻ってくる。彩乃の笑顔に僕もおじいさんも目を細めた。
そこに居てくれるだけで、僕を救ってくれる存在。そんな存在を彩乃と暮らすまで、彩乃を育てるまで、僕は知らなかった。
大きくなったとはいえ、まだ小さい妹の頭をぽんぽんと撫でて、車に乗り込んだ。




