The Previous Days 後編(4)
「で、山形君は何もしないの?」
またしても僕は杉森さんに呼び出されて、安い居酒屋で酒の相手をしている。
「いや。別に」
「いいじゃん。何か習ってみれば」
杉森さんは酒が進むと関西弁になり、まだ素面のうちは標準語…彼に言わせると関東弁だ。
「山形君、考えが固いよ。適当にやってみる。それもあり」
彼はガツンガツンと僕の肩を叩く。これ、人間だったらかなり痛いんじゃないか?
結局、僕は翻訳の仕事から足を洗うことが出来ていない。ギリギリの仕事だけ、お願いだから助けて…という杉森さんの命綱みたいな状態になっている。
「っていうか、僕なんか呼び出していていいんですか? こんなことしてるよりも…」
と言いかけたとたんに、向こうに人影が見える。
「はーい。山形君」
田中さんだ。
「あ、来た。来た」
「お待たせ~」
思わず僕は頭を抱えた。
「また僕をダシにして」
「いいじゃないの。タダ酒よ。タダ酒。私がおごってあげるのよ?」
「そうそう。うちの会社、社内恋愛禁止だから」
知らないよ。そんなの。
あの後、杉森さんと田中さんは会社に内緒で付き合いだしたらしい。それで事情を知っている僕を呼び出して、一見打ち合わせに見える飲み会というのを繰り返していた。
確かに僕は何も言わないし。他のライターや翻訳者、編集者とも接点がほとんどないから、彼らにしてみたら好都合ってところだろう。
「いいですけどね。見つかったらどうするんです?」
僕の言葉に、田中さんはウィンクをしながら笑う。
「そのときは、そのときよ。『ま、いっか』って思うの」
「はい?」
「うふふ。魔法の言葉よ。とりあえず後のことは放り投げて『ま、いっか』。そう口にしちゃえば、心配要らないわ。なるようになる」
いや。その…。それは、どうなんだ?
「使うでしょ? 『まあ、いいか』っていう言葉。それをもっと積極的に使っちゃえばいいのよ」
僕の視線に、田中さんが屈託なく笑う。
「あ、ちなみに本当に失敗したときはダメよ~。とくにうちとの仕事では。許さないからね」
「はあ」
「それにね~。ばれちゃったら、杉森くんに養ってもらうわ~」
田中さんの言葉に、杉森さんがビールを吹き出した。
「そ、それ、プロポーズ」
「え? あ、そっか~。ま、それでもいいかも。あはは~」
色気のないプロポーズだ。
「あのね。こういう仕事していると、色々あるの。締め切り直前にライターさんが逃げちゃったり、印刷が上がらなかったり。そりゃ困るけど、それでダメージ食らってたら、持たないのよ~。だから『ま、いっか』なの」
田中さんは、まだお酒も飲んでいないのに、ハイテンションで言う。はぁ。
つんつんと杉森さんが僕を引っ張って、耳元で囁いてきた。
「ほら。こういうところ、俺、惚れたんだよね~」
「はいはい」
もう何も言えない。僕は口にしてみた。
「ま、いっか」
うん。考えないっていうのは、ありだよね。二人が幸せなら、それでよし。お酒が来たところで、乾杯し、どうでもいい話で盛り上がった。
田中さんの『ま、いっか』と、杉森さんの言葉に背中を押されたわけではないけれど、僕は少し考え方を変えて、色々やってみようか…と思い始めた。まあ、今までにも割りと色々やっているけれど、それをもっと積極的に。
とりあえず彩乃にあわせて僕も新しい武道でも習ってみようと、合気道を習い始めた。初めてのことは、先生に怒られてばかりだけれど、これはこれで新しい体験で面白い。まあ、それもありだ。『ま、いっか』ってことだ。
そんな時間を作れたのも、イギリスからの相談ごとが極端に減りつつあったのと、学生生活に慣れつつあったというのも大きい。イギリスのほうは、まあ、なんとか回っているならいいさ…と、僕としては構う気がまったく無かった。
それから夏休み前に、彩乃の学校の保護者面談があった。こういうときは僕が行くわけだ。彩乃の小学校は一、二年生で同じ担任で、三、四年生で同じ担任。そして五、六年生で同じ担任というふうに、担任が二年ずつになるのが通例だ。
三、四年生のときの先生は女の先生で、彩乃の担任になってから教会に通って来たり、家庭訪問をこまめにしたりと、わりと熱心にコンタクトを取ってきていた。
学校っていうのは、保護者参観やら、学校公開やら、色々と細かい行事がある。彩乃の通っていた地域はそういうのが熱心らしい。とは言え、実は途中までそれを知らなかった。
あれは彩乃が二年生の秋ぐらいのときだったと思う。僕は教会に通ってきている奥さんの一人に話しかけられた。
「宮月先生」
「はい?」
教会員の人たちは僕を先生と呼ぶ。こんなに若く見えるのにね。まあ、一応牧師(の卵)だから…ということだ。
「次の火曜日、彩乃ちゃんの面談ですよね? 先生が行くんですか? それとも田島先生?」
僕は目を丸くした。そんなことがあるなんて彩乃に聞いてない。
「え? そんなのがあるんですか?」
話しかけてくれた協会員の人は、お嬢さんが彩乃と同じ学校で一つ上の学年だった。
「ありますよ。やっぱり! うちの子がね、彩乃ちゃん、この前の保護者参観のときにも寂しそうだったって言ってたから」
「え? 保護者参観なんてあったんですか?」
「ええ。ありましたよ。二ヶ月ぐらい前からしら」
僕は頭を抱えた。
そう言えば僕は学校からのお知らせとか、彩乃のテストとか見ていない。彩乃が持ってきた話を聞いて、分からないというところを教えているだけだ。うーん。幼稚園のときは、結構ちゃんと持ってきたんだけどなぁ。




