The Previous Days 中編(10)
彩乃が僕を見て、一生懸命に小さな身体でこちらに走ってくる。英語だから内容までは分からないに違いない。それでも普段と違う僕の様子に何かを感じたような表情をしていた。
「僕は…いつも彩乃を閉じ込めて、彩乃を大事にしたかったのに…できなくて…。欲しいものも買ってやれなくて…」
言いたくないのに、堰を切ったように僕の口から彩乃にずっと感じていた罪悪感がこぼれてくる。
「夏休みだって、どこへも連れていってやれなくて…」
彩乃が僕の膝にくっついて、一生懸命、僕の顔に手を伸ばしてきた。僕はそれを無意識に抱き上げる。
「いつも、いつも、寂しい思いをさせて…」
小さな手が僕の頬をなぞり、自分が泣いていることに気づいた。最悪だ。レイラとザック叔父さんの前で泣き出すなんて…。涙を見せないようにして俯けば、大きな手が肩に乗った。
「それは、お前が一生懸命、彩乃を育ててきた証だろう? 大丈夫だ。彩乃は分かっている。ほら。見てごらん」
ザック叔父さんの言葉に、膝の上に乗せた彩乃を見れば、心配そうな顔をして僕を見ている。
「おにいちゃん。だいじょうぶ? いたい? つらい?」
「彩乃…ごめん」
「どうしたの?」
「大丈夫だよ。びっくりさせてごめん」
そう伝えれば、彩乃が首をかしげた。
「いたくない?」
「痛くないよ。大丈夫だから、遊んでおいて」
心配そうに僕を見る茶色の瞳。母さんと同じ色の瞳。髪を撫でれば、さらさらとした手触りのいい髪の毛が指に触る。
「ほら。心配しないで」
僕は無理やり微笑んで、彩乃を膝から下ろしてレイラのほうへ背中を押してやった。彩乃は僕を振り返りながらも、レイラのほうへ戻っていく。
「優しくて、いい子だ」
ザック叔父さんの声が聞こえる。
「彩乃が生まれた日、アルバートから電話が来た。それであいつ、言うんだ。『宝物ができた』って。女の子を欲しがっていたからな。よっぽど嬉しかったんだろう。有頂天だった」
僕は情けない顔を見られたくなくて、また俯いていた。
「お前はアルバートの宝物を守ったんだ。俺の兄弟の宝物を守ってくれたんだ。だからお礼を言いたい。ありがとう」
顔をあげれば、父さんにそっくりな瞳と顔立ち。違うのは赤みがかった髪の色。
「僕は…」
「クリスタルも気持ちは一緒だ。クリスタルは小さいころアルバートにべったりくっついているぐらい兄さんが好きだったし、ねねとは実の姉妹のように仲が良かった。実際に、アンバーが生きていたころなんて、三姉妹みたいにしてたしな」
それはなんとなく覚えている。僕が小さいころはクリスタルとアンバーがいつも一緒にいて、まるで母親が三人いるような状態だった。そのうちにアンバーもクリスタルもそれぞれの家庭を持って、離れていったけれど。
まるで三つ子のようだと父さんに笑われていたっけ。
「だから、お前と彩乃が無事でいてくれて嬉しかった」
「僕も?」
「そりゃそうだ。俺にとったらいつまでも可愛いリーデル坊やなんだよ。いくら突っ張ってみせたところで、おしめを替えたり、風呂に入れてやった相手だ」
「えっ?」
ザック叔父さんはにやりと嗤った。
「覚えてないだろ? ちなみにクリスタルもアンバーもだからな。兄弟の中で最初の息子だ。可愛くて、可愛くて、みんなで世話をするのは取り合いになっていた」
思わず頬が熱くなる。
「そんなこと…忘れてください」
「無理だな。リー。諦めろ。そうやって恥ずかしい思い出が残るんだよ」
「ちょっと…」
僕の焦った顔を見て、ザック叔父さんは大らかに笑った。
「お前だってそうだ。彩乃がいくつになっても、おしめを替えて、風呂に入れたことは忘れられないぞ。きっと彩乃に子供ができても、孫ができても、彩乃はお前にとって彩乃で、可愛い妹のままだ」
一瞬絶句したけれど、ザック叔父さんが言いたいことがわかった気がした。それは想像できる。きっと彩乃がいくつになっても、どんなに大人になっても、彩乃は僕の妹のままだ。僕が育てた妹だということだ。
顔をあげればザック叔父さんが優しい瞳で僕を見ていた。
「だからな。リー。改めて礼を言う。彩乃を育ててくれてありがとう。アルバートの宝は俺たちの宝だ。そして可愛いリーデル坊やも生き残ってくれて、ありがとうな」
僕は再び何も言えなくなって、黙ってうつむいた。目頭が熱くなるのが止められなくて、そのまま暫く下を向いていた。ぽんぽんと大きな手が僕の肩をたたく。
「そうとんがるな。もっと肩の力を抜いていけ。硬い枝は折れるが、柔らかな枝はしなる。柔らかい枝になれ」
「意味が分からない」
僕のつぶやきにザック叔父さんが笑い声で答えた。
「お前はお前の人生の主人公なんだ。だから好きに生きればいい。だけど、今、お前の人生の物語には登場人物が少なすぎる。お前と彩乃しかいないだろう? まあ、俺たちも脇役程度で認識されているかもしれないけどな。もっと登場人物を増やせ。お前に関わるやつを増やしていけばいい」
何を言われているか、まったく意味が分からない。こういうところは父さんと似ている。こっちが理解できようが、できまいが、勝手に喩え話をして満足してしまう。
「そのうちにわかるさ」
僕が理解できないのを見透かしたように、ザック叔父さんは言った。




