The Previous Days 中編(2)
男のことは、やや気になったけれど殺気はない。こちらを伺うだけだ。身に覚えがないので放っておいたら、足音がして僕のすぐ傍までやってきた。
「あの…リーデルさん…ですよね?」
「はい?」
僕は男の顔を見たけれど、全然覚えがない。それに日本でその名前を呼ばれるとは思わなかった。
「リーデル・ドルフィルスさんですよね?」
もう一度男が確認してくる。肯定していいのか、どうなのか。僕は何を言われているか分からないという顔で、男を観察した。たじろぐようにしながらも、男がさらに口を開く。
「あの…探すように…頼まれていまして」
「はい?」
誰が? なぜ? まさか父さんの絡みの借金取り? 僕が踵を返して逃げようとしたところで男の声が届いた。
「メアリ・スチュワート様からのご依頼です」
名前がゆっくりと僕の頭の中に染みこんでいく。
「あの…日本で連絡が取れなくなってしまったので、探して欲しいといわれてまして…」
「あなた…誰ですか?」
「私は興信所のものです。このあたりに居るはずだから…ということで、ずっとあちこち探していまして…。さっき見かけたので、確認するためにここまで追ってきたんです」
なんてこった。尾行されていたのに気づかなかったなんて。っていうか、僕を尾行するやつがいるとは思わなかったというべきか。
「それで…リーデルさんですか?」
メアリが探しているっていうことは、僕は僕だと認めていいんだろう。
「はい。そうです」
男がほぉっと安心したように息を吐き出した。そして手にしていたカバンから、封筒を取り出した。手紙だ。
「これをあなたに渡して欲しいといわれました。良かった。これで終了です」
僕があっけに取られているところで、男は去っていった。
デパートの中のベンチに座って封をあける。中の紙に書いてあったのは、そっけなく一言で、下記の住所・電話番号に連絡をして欲しいということだけだった。その連絡先はイギリスの屋敷があった場所だ。
まさか…。僕は自分の心臓の音が早くなるのを感じた。
父さんは「拠点を移す」と言ったけれど、イギリスを引き払うとは言っていなかった。引き払っていると思ったのは僕だ。
胸ポケットから携帯電話を出して、震える手で電話をかける。国際電話であることの通知と、長い呼び出し音の後に聞こえたのは、懐かしいメアリの声だった。
メアリ。お祖父さんの眷族から父さんの眷族になった女性。もともとそれなりの年齢がいってから眷族になったこともあって、現在は老婦人という外見だ。
「あ~。メアリ? リーデルだけど…」
メアリが息を飲んだ。
「一体、あなたはどこで何をしているんです?」
綺麗なクィーンズイングリッシュが僕の耳に届く。
「いや。日本にいるし。彩乃を育てている」
「マスターが亡くなって、なぜこちらに連絡をいただけなかったのですか?」
「えっと…父さんが拠点を東京に移すって言ったんで…そっちに誰か残っていると思ってなくて…」
我ながら馬鹿げていると思いながら、思わず言い訳をした。とたんに大きなため息が聞こえてくる。
「必死にあなたを探していたのに、あなたはかくれんぼをしていたということですね?」
「いや…その…」
「とにかく。家督継承を行ってください。一族一同、数年間お待ちしています」
「あ…そうは言っても…」
「なんですか」
「いや。旅費が無い」
「なんとおっしゃいました?」
「旅費が無いんだよ。メアリ」
再び大きなため息が聞こえた。
「お金については、日本で使っていらっしゃる口座を教えてください。振り込みます。いらっしゃるならチャーター機を飛ばします。それでいつこちらへ?」
いやいや。ちょっと待って。展開についていけない。
「えっと…」
「明日ですか? 明後日ですか?」
僕は頭を抱えた。
「あ~。年明け」
「なんとおっしゃいました?」
I'm sorry? (なんとおっしゃいました?)と聞き返してくるのは、メアリの嫌味だ。本当は聞こえているくせに。
「年明けにしてくれ。こっちもいろいろあるんだ」
また盛大なため息がこれ見よがしに聞こえてくる。
「わかりました。では年明け。すぐにでも」
「ああ。また連絡する」
「はい。お待ちしています」
僕は銀行口座を伝えてから電話を切った。
頭を整理する。
つまり…イギリスの拠点はあったということだ。
そして一族はみな連絡のつく状態になっているということだ。
僕は思わず脱力して、ベンチの背へ身体を預けた。眩暈もしてくるような気がして片手で視界を遮る。なんという空回りだろう。




