The Previous Days 前編(12)
彩乃がびっくりして半ばまで渡ったところで、自転車を漕いでいた足を止める。傍にいた友達は気づかずにそのまま先に行こうとした。
そこへ近づいてくる大きな影。フロントガラスからは、トラック運転手の驚いたような顔。余所見でもしていたのか、ブレーキの音がしない。目の前にいるのは子供ふたり。
僕はとっさに彩乃に向かって飛び掛り、そのまま大きな道路の向こう側の歩道まで彩乃の小さな身体を抱きしめたまま転がった。
大きなクラクションの音。「ぐしゃり」と何かが潰れる音。空高く舞う子供の姿。遅れて大きなブレーキ音。横滑りして歩道橋の足にぶつかって止まるトラック。
地面に転がったままの僕の耳と目にそんなものが届く。空高く舞った子供は目と鼻の先に、手足をありえない方向に曲げて、落ちた。
間一髪で救った彩乃を腕の中へ閉じ込める。何も見ないように。何も聞こえないように。
「おにいちゃん?」
顔を上げようとした彩乃の頭を押さえつけて、震える手で僕の胸に押し付ける。
「顔を上げないで。彩乃。目を瞑ってお兄ちゃんにしがみついていて」
自分のもので無いみたいに声まで震えている。それで何かを察したのだろう。彩乃は頷いて自分から僕へとしがみついた。そこへ周りで悲鳴や怒声が上がる。
「大丈夫ですかっ!」
「救急車を!」
知らない人の声が響く。
「かずみっ!」
女性の叫び声。その中で小さな頭を自分の胸に押し付けたまま、彩乃の耳と目を自分の胸と腕で塞ぐようにして立ち上がった。僕自身に痛みはどこにもない。顔と手を少し擦った気がするが大したことはない。すでに治っているだろう。手の震えも漸く収まった。
「彩乃。目を開けちゃダメだよ」
僕の真面目な声に、今度は彩乃がわずかに震えながら頷いた。
「痛いところはある?」
小さな頭が横に振られる。そのまま彩乃を片手で抱き上げる。彩乃は両手を僕の首に回してしっかりとしがみついた。
「かずみっ。かずみっ」
視線を落とせば、ぐったりと横になった女の子の傍で、さっきまで僕と暢気に話をしていた女性がわめいている。女の子の意識がないために、両手で女の子を揺すろうとした。
「触っちゃダメだ」
僕の声に女性がビクリとして、それから顔をあげて僕を睨みつけた。
「生きているから早く医者を。下手に触らないほうがいい」
僕は自分の耳に届く微かな呼吸音と心音を頼りに伝えた。しかし女性に意図は伝わらなかったようだ。気が狂ったように女の子を揺すり始める。
ああ。ダメなんだけどな。そんな風にケガ人を揺すっちゃ。そう思ったけれど、僕はそれ以上、女性を止めなかった。周りの人間が彼女を羽交い絞めにし、女の子から引き離す。
僕は転がっているぐしゃぐしゃになった彩乃の自転車を空いているほうの手で拾い上げて、その場に背を向けた。
「あの…ケガは…」
おずおずと男が声をかけてくる。トラックの運転手か、それとも周りの野次馬か。
「僕は大丈夫。この子もケガしていないから」
それだけを振り返って伝える。遠くから微かにパトカーと救急車の音がしている。もうすぐ到着するだろう。だけど僕らは救急車の世話になるわけにはいかない。逃げるように、その場を立ち去った。
結局、撥ねられた女の子は助からなかった。お葬式が行われて、彩乃と共に参列した。
小学校や幼稚園のときの友達とその親が次から次へ来て、そして焼香していく。僕らもその列に並び、そして最前列に来たときだった。
「人殺しっ!」
女性の声が響き渡る。何事かと思い、やや俯き加減でいた顔をあげれば、親族の席から女性が僕を睨んでいた。女の子のお母さんだ。
「なんでうちの子を助けなかったのっ! 自分の子ばっかり」
半狂乱になって叫んでいる。何を言ってるんだろう。この人は。
「うちの子が彩乃ちゃんに意地悪してたから、憎かったんでしょ。意地悪の仕返しに助けなかったんでしょっ」
隣にいたご主人と思われる人が女性を止めようとするが、その手は振り払われた。彩乃が友達に意地悪をされていたなんて知らなかったな。彩乃はそんなこと、一言も言っていなかった。
「うちの子を…なんで助けてくれなかったのよっ。この人殺し!」
その理不尽な叫び声を聞いてるうちに、僕の中で何かがさぁーっと冷めてしまった。なんでこんなことを言われないとならない?
「見捨てたんでしょっ! この悪魔っ!」
さすがにご主人が無理やり奥さんの口をふさいだ。周りの人間は遠巻きにするようにして僕らを見ている。
やれやれ。悪魔ね。まったくその通りだよ。奥さんがご主人の手を振り払ってさらに僕に詰め寄ろうとする。それをまた周りが止める。
「なんとか言いなさいよっ! 図星だから何も言えないんでしょっ!」
僕は大きくため息をついて、そして彼女をまっすぐに見た。
「僕が身体をはって彩乃を助けたときに、あなたは…何をしていましたか?」
その一言だけで、奥さんの動きが止まった。周りも静まり返って僕を見ている。




