The Previous Days 前編(10)
その日も明け方近くまでバイトして、ベニヤ板でできた軋むアパートのドアをそっと開けたときだった。いつもは静かな部屋の中で、誰かが動き回っている音がした。さらに知らない匂いまでする。
このところ睡眠が減っていて疲れきっていたとはいえ迂闊だった。こんな薄いドア一枚の向こう側の気配に気づかないなんて、今までの僕では考えられない。平和ボケしたとしか思えなかった。音を立てて、鍵をがちゃがちゃと開けてしまったから、向こうも気づいているだろう。
部屋は小さなダイニングテーブルが置ける程度のキッチンと、その奥にある寝室だけだ。そっと中を伺ったけれど、出入り口に一番近い台所には誰もいなかった。あとは彩乃が寝ている寝室。誰かがいる。僕は嫌な確信を持って警戒しながら、そっと寝室のドアを開けた。
とたんに目に入ったのは、彩乃の首にナイフを当ててぶるぶる震えながらこっちを見ている見知らぬ男だった。
「か、金を出せ」
ナイフの構えは素人だ。それでも僕は背筋が冷たくなっていくのを感じた。それと同時に頭の芯も冷めていく。金を出せるものならば、いくらでも出してやる。しかし、出版社からの支払いも、バイト代の支払いも数日先だ。今、我が家に現金なんて殆どない。
彩乃は驚いた目をして首筋のナイフを見ている。僕が一言も発せないのを拒絶と受け取ったのか、男は彩乃の首にさらにナイフを押し付けるようにして言った。
「金を出さないとこいつを殺すぞ」
その一言が、僕の中の何かの引き金をひいた。
殺す。誰を?
抱えられているのは彩乃だ。
彩乃…僕の妹を殺す?
殺す?
僕は自分の本能が暴走するのを感じた。布が破れる音がして内臓が引き出されるような感覚と共に、黒い蛇のようなものがナイフを持った男に向かって走っていく。
それは一瞬だった。黒いものが男に突き刺さり、次の瞬間に男の身体は灰になって消えた。後に残るのは、黒い僕の尻尾だ。くねくねとうねる尻尾だけが、その場に残っている。
その僕の姿を見て、彩乃は火がついたように泣き出した。
ドンっ。隣の部屋から壁を叩かれる音で、僕は我に返る。眠っていない上に、忙しくて獲物が物色できず、ほとんど絶食状態だった。それで思考も鈍っていた。思わず後先考えずに動いたのは確かだ。彩乃に見せる気が無かった僕の能力を使ってしまった。そして今のこの身体に、人間一人分の吸収は重かった。しかし泣いている彩乃をそのままにできない。
「彩乃。大丈夫だから。泣かないで」
急いで尻尾を戻すと彩乃を抱きしめた。小さな顔が涙でびしょびしょになりながら首を振る。
「あやのじゃないの。リリアなの」
「彩乃…」
「リリアなの」
僕はため息をついた。この際、どちらでもいい。
「リリア。泣き止んで」
そう言って抱きしめれば、彩乃が一生懸命涙を止めようと努力しながら、僕にしがみついてくる。
「いたい? おにいちゃん、いたい?」
僕の尻尾が僕の身体に戻ったのと、体調が悪そうに見えるからか、彩乃は泣きながらそんなことを口にした。
「痛くないよ。リリアは無事だった? どこも傷ついてない?」
「だいじょうぶ…」
首筋を見れば、無事らしい。血が流れたあとは無かった。他にも傷はついていない。思わず口から安堵の息が漏れた。小さな身体を抱きしめれば温かい。大丈夫。彼女は生きている。無事だ。彩乃を失いそうになったショックで僕の手は細かく震えていた。
彩乃が泣き止んだのを見計らって布団に寝せたけれど、おびえているのか、なかなか寝ようとしなかった。仕方なく僕はぎゅっと手を握ったまま、彩乃が寝付くまで布団のそばにいた。
それから灰となった男の遺留品を検分する。懐中電灯に財布。時計。財布の中には五千円札。なんだ。僕よりも所持金額が多いじゃないか。うちに泥棒に入っても得られるものなど無かったのに…。それ以上に相手は素人だった。落ち着いて考えれば、あんな状態で彩乃を殺せるわけがない。うまく対処すれば、無力化することも可能だっただろう。それでもあの瞬間、僕には何も考えられなかった。
今まで感じたことがない戸惑いを感じる。なぜ僕は冷静に対処できなかったんだろう。あんな人間の、素人相手に。なんともいえない気持ちになるが、僕は僕自身に説明がつけられなかった。
この事件の後、彩乃がたまにじっと僕を見ていることがある。多分、尻尾の存在を気にしているんだろう。いつかきちんと話さなければいけないな。僕らが人間ではないということを。




