The Previous Days 前編(7)
翌年の四月。三月生まれの彩乃は四歳。僕は彩乃を幼稚園に入れることを決意する。
「彩乃。絶対に人間を触るときに力を入れたらダメだからね」
「うん」
幼稚園の制服をきて、黄色のベレー帽をかぶり、幼稚園指定の黄色のバッグを肩から提げた彩乃は、とても可愛らしかった。
肩にかかる程度に切りそろえてある髪を、顔の横で赤いピンを使って留めてやる。
「じゃあ行こうか」
僕は手続きをした幼稚園の入園式に、彩乃を連れていった。皆がパリッとした余所行きの洋服の中で、僕はブラックジーンズにジャケットという軽装だ。別に選んだわけじゃなくて、わりとマシな洋服がこれしかなかった。ま、仕方ない。
彩乃はすぐに幼稚園に慣れた。…多分。
先生に言わせると、人見知りが酷くて、あまりみんなと話ができないらしい。それでも何人かの女の子が、彩乃のそばにいてくれるらしくて、大人たちが思うよりも毎日の生活を楽しそうに過ごしているようだった。
「かずみちゃんがね。あやののことを、めっていうけど、あいちゃんがね、いいこしてくれるの」
彩乃の話は、何がなんだかさっぱりわからない。ま、いいや。
「うん。良かったね」
適当に返事をすれば、彩乃がにっこりと笑った。
「うん。よかったの。それでね、きょうは、とことこしたのっ!」
「そっか。楽しかった?」
「うん。たのしかったの」
実は何をやったか、全然わからない。きっと何かの遊びのことだろう。まあ、なんか機嫌がいいからいいことにしよう。うん。こういうのはきっと、聞いていることに意義があるはずだ。そう自分で納得して、不可解な彩乃の話をとりあえず毎日聞く。この頃、僕は本当に適当に彩乃の話をきいていた。
仕事のほうは少し順調になってきた。例の酷い依頼の後から、杉森さんの依頼はかなりマシになり、定期的にもらえるようになったのが大きい。だから昼間の彩乃が居ない時間に仕事をし、幼稚園から戻ってきたら彩乃の相手をしてやることができた。
子供が幼稚園に行っているというのは、本当に大分違う。自分のペースで物事が進められるというのは大きなメリットだ。
「おにいちゃん」
「ん?」
幼稚園から帰ってきた彩乃が僕に一生懸命話しかける。僕は台所で夕食を作っていた。
「あのね。ちをのんだら、ヘンなの?」
僕は思わず料理をしていた手を止める。
「なんでそんなことを訊くの?」
「ん~」
彩乃が眉を寄せて、ちょっと難しいような、悲しいような顔をした。
「きょうね、かずみちゃんがころんだの」
「うん」
「それでちがでたの。あやのがなめたら、みんながだめっていうの」
「…」
「ち…おいしいよ? っていったら、ヘンっていうの。あやの、ヘンなの?」
彩乃は困ったような顔をして僕を見上げている。僕はしゃがみこんで彩乃の目線に自分の目線を合わせた。
「彩乃。血を飲むことは内緒だよ」
「ないしょなの?」
「うん。内緒だ。お兄ちゃんと彩乃の秘密」
彩乃が考え込む。
「あやの…ヘンなの?」
僕はゆるゆると首を振った。
「おかしくはないよ。でも内緒だから、ほかの人の血は舐めちゃダメだよ」
「うん。ち…おいしいよね? みんながおいしくないっていうの」
「おいしいね。でもそれも言っちゃダメなんだよ」
「だめなの?」
彩乃は少し考え込んだ後で、僕をじっと見る。
「…あやの…ち…いらない」
「彩乃」
「だって…みんな、ちをなめたりしないんだよ」
小さな口が一生懸命動く。
「あのね。ちをなめるときたないんだって。ばいきんがはいるの」
「それはね、傷口からばい菌が入るといわれていて、血をなめちゃいけないわけじゃないよ」
彩乃が首を振った。
「でも、みんながいうの」
「彩乃」
「もうあやの…ちはいらない」
「血、おいしいよ? 飲まないと死んじゃうんだよ」
彩乃が目を見開く。
「しんじゃうの?」
「うん。彩乃とお兄ちゃんは、血を飲まないと死んじゃうんだよ」
「おにいちゃんも、ち…のんでるの?」
ああそうか。僕は外で適当に調達することが多いから、彩乃の目の前で飲んだことがない。そして彩乃は今だに僕の指先から血を吸っていた。
「お兄ちゃんも飲んでるよ。外でね。だから彩乃も飲んで?」
彩乃が首をふる。
「いらないの」
まだ彩乃に僕らのことを説明するには難しいだろう。やれやれ。どうしようか。まあ、お腹が空いてくれば飲むだろう。
僕はそれ以上説得することは諦めて、夕食にすることにした。




