The Previous Days 前編(6)
この頃、僕の悩み事の中心はいつでも彩乃だった。彩乃はもう三歳で、三歳児保育をやっている幼稚園だったら入る資格はある。ホストをやっていたころよりも彩乃に言葉を教えたり、力のコントロールを教えたりする時間は増えたけれど、それでも足りない。彩乃はまだカタコトしか喋れない。僕のせいだ。
だから、まわりの子は幼稚園に行くようだけれど、彩乃をどうするかは迷っていた。言葉が上手に喋れない。その上、力がうまく制御できるかどうか…それが心配だ。
彩乃の戸籍はあるから問題はない。住民票を移さないといけないけれど。そういや僕の戸籍もあるんだよな。うん。父さんが作ったって言ってた。そろそろ彩乃だって友達が欲しい時期だろう。
大事な妹で…本当に大事にしているつもりなのに、僕がやっていることはいつも空回りしている気がする。どうしたら妹をちゃんと育てられるのか分からない。
助けられているのは、彩乃がおっとりした子だったことだ。昼間は本当に大人しくて、僕の言うことをよく聞く。一方で夜は人が変わったように大暴れをした。まるで夜だけ、しかも夜中だけ反抗期になるようだった。
眠くてぐずるのだろうと考えて、僕はなるべく早い時間に彩乃を眠らせてしまうことにした。
ある夜のこと。結局今年、幼稚園は諦めて、来年行かせるかどうか検討することにした。そんな夜のことだ。
またしても急ぎでやらなければいけない翻訳をやっていて、あっという間に夜半を過ぎていた。
いつもなら彩乃を寝かしつけてから机に向かうのに、うっかりと仕事を優先してしまっている。慌てて僕は隣の部屋で子供向けのDVDを見ている彩乃のところへ向かった。
「彩乃。もう眠る時間だよ」
彩乃がコントローラーを片手にくるりと振り返った。できることが少ない彩乃でも、DVDの再生だけは覚えてしまっている。
僕と話をするだけで言葉を覚えるのは限界があるだろうと、僕は彩乃のために中古のテレビと同じく中古のDVDプレーヤーを手に入れていた。我が家でほぼ唯一の娯楽品だ。
これは功を奏していた。彩乃の語彙は格段に増えているし、いろいろなことが言えるようになっている。僕の変わりをDVDにさせている気がするけれど、僕の罪悪感などよりも彩乃が言葉を覚えてくれるほうがいい。
彩乃は僕に向かって顔をしかめて見せると、また画面に顔を戻した。
「彩乃? もう寝ないと」
「…ちがう、もん」
「何? なんて言ったの?」
彩乃の言葉が聞こえなくて、傍に行って聞き返せば、僕の耳元で彩乃が怒鳴った。
「あやの、ちがう、もん」
「彩乃?」
「ちがうの。あやの、ちがうの」
「何言ってるの?」
「あやのは、なまえ、ちがうの。あたしね。あやの、ちがうの」
また癇癪を起こし始めたんだと僕は思って、とりあえずいなすことにする。
「はいはい。じゃあ、なんていう名前なの?」
そう聞いたとたんに、彩乃がさらに顔をしかめた。
「…あやの、ちがうの…」
「うん。彩乃じゃないんだよね。じゃあ、名前は?」
「なまえ、ちがうのっ!」
ふてくされたような顔で俯く彩乃を僕はじっと見つめた。空想の世界で遊んでいるんだろうか。
子供はたまに自分は自分じゃなくて、他のもの、例えばヒーローだと言ったり、お姫様だと言ったりすることがあるらしい。それなんだろうか?
「あたしのなまえ…しってる?」
「彩乃でしょ?」
そう答えたとたんに、彩乃はぶんぶんと首を振った。
「ほら。彩乃。ふざけてないで、もう寝ないと」
「ちがうの。あやのちがうの。ちがうの」
彩乃は頑なに拒絶する。やれやれ。
僕はため息をついて、そして彩乃のもう一つの名前を思い出した。そう。僕ら一族は複数の名前を持つ。それを言えば納得するかもしれない。
「じゃあ、リリア」
「いいあ?」
「リ・リ・ア」
一言ずつ区切るように言ってやれば、ようやくわかったらしい。
「リリア。それ、あたし?」
「うん。そうだね。リリアも君の名前だよ」
そう答えたとたんに、彩乃がにっこりと、本当ににっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「うん。リリアね」
「はい。じゃあ、寝ようか。彩乃」
僕の言葉に彩乃の機嫌が悪くなる。
「リリアなのっ!」
「はいはい。じゃあ、リリア。いい子で寝よう?」
「うんっ!」
ようやく彩乃は機嫌よく、布団の中へともぐりこんでくれた。
翌朝、徹夜で終わった原稿を出版社に送ってから、彩乃に食事を作る。何を食べさせたらいいのか分からないけれど、血だけを飲ますのも将来人間のフリをするときに困るだろうと、なんとなく朝食と夕食だけは簡単なものを作って食べさせることにした。
食事はたまに僕自身が人間のふりをするために作るし、作ること自体は嫌いじゃなかった。だから割とちゃんと彩乃に食事を提供しているんじゃないかな。
お金は無いから、特売品や見切り品が中心だ。大根は葉が付いたのを買って、葉の部分を炒めたり漬物風にするなんて当たり前。パンの耳を貰ってきて揚げて砂糖をかけて、かりん糖風にしたり、バターと砂糖で焼いてラスク風にして朝食にしたり(これには彩乃が喜んだ)。
そんな風に工夫して作るのは、頭を使うけど悪くなかった。
「リリア、ご飯だよ」
昨日のノリで声をかければ彩乃が怪訝な顔をした。
「あやの、だよ?」
「リリアじゃないの?」
「ん~」
彩乃は小首を傾げて考え込んだ上で、僕に言う。
「ちがうの。わたし、あやのよ?」
どうやらリリアごっこに飽きたららしい。まあ、子供はそんなもんだろう。
「はいはい。じゃあ、彩乃。ご飯ね」
彩乃がにっこりと笑う。
「うん! ごはんね」
ちなみに彩乃が考えるときに小首をかしげるのは、DVDの影響だと思う。幼児向けの動物を主人公にしたアニメなんだけど、その中のかわいいウサギの女の子が、疑問があるときや考えるときに小首をかしげる。それを真似しているらしい。
こうして夜中になると「リリアなのっ」と言い、朝になると「あやのだよ?」という彩乃を不思議に思うこともなく、僕は単に何かのごっこ遊びなのだろうと思っていた。




