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Red Eyes ~ 吸血鬼の落ちどころ ~  作者: 沙羅咲
特別番外編 I I
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The Previous Days 前編(5)

 そこからが戦争だった。いや。一人戦争っていうか、とにかく日本語から英語へ訳し続ける。その繰り返しだ。翻訳して、翻訳が間違っていないか見直さないといけないし。本当に時間がない。引き受けたことを後悔しそうになるぐらい酷いもんだ。


 夜中、途中で彩乃が暴れ始めて、仕方なく僕は彼女を寝室に閉じ込めた。


 本当にごめん。そう心の中で呟きながら、彩乃が僕に向かって舌足らずな声で「だして」「ごめんね」と言うのを無視して、狭いキッチンのダイニングテーブルで仕事に没頭した。


 そして翌朝までに半分弱は翻訳が終わって送ることに成功する。あまり難しい文章ではなく、特殊な用語もほとんど出てこないものだったから助かった。


 残りも大分出来ていたから、上手くすれば夕方までに終わるかもしれない…。そう思いながら、引き続き、僕は翻訳することに注力した。


 すべてが終わったのは目算どおり夕方だった。翻訳を出版社に送り終わって、ふっと気づいて奥の部屋を見れば、床の上で彩乃が涙を流して眠っていた。


 またやってしまった…。


 僕は何度目かの後悔の念に囚われた。彩乃をベッドに寝かせて僕は一人でふらふらと外へ出る。


 彩乃が最初に覚えた言葉は「ごめん」だった。その次が「だして」。どれだけ僕は彩乃に謝り続け、そして彩乃を閉じ込めてきたのか。


 何か…彩乃が喜ぶような甘いものとか…。


 強烈な自己嫌悪に苛まれながら、少しでも彩乃に機嫌を直してもらおうと、ふらふらと歩いていくうちに、近所の小さな公園に通りかかった。


 子供たちが親に迎えにきてもらって、帰っていく。その光景を見て、僕はまた辛い気持ちに襲われる。本当だったら、彩乃だって外で遊んだりしたいだろうに…。それなのに僕は彩乃を閉じ込めてばかりいる。


 彩乃はまだ力の加減が上手くできないから、同じぐらいの年の子たちと遊ばせるわけないはいかない。必然的に僕が一緒にいる必要があったけれど、その時間もうまく取れていない。


 家にいるときは電話とメールで営業活動まがいのご機嫌伺いをして、わずかばかりの仕事を得る。うまく仕事が入れば彩乃をほったらかしで、翻訳三昧だ。


 公園のベンチに思わず座り込んで、夕暮れ時の風景を見、そして空を見た。うっすらと暗くなっていく空に千切れたような雲がいくつか見える。きっと今日はいい天気だったはずだ。僕が見ていないだけで…。


 綺麗だったはずの空を見ながらため息をつけば、隣に誰かが座った。別にベンチはみんなのものだし、この公園のベンチはここだけだったから、僕は隣の人を気にせずに空を眺め続けた。


 僕は孤独だ。仕事の打ち合わせ以外で話すこともなく、彩乃のことを相談する相手もいない。いとこの顔やイギリスに居たころに僕の世話をしてくれていた一族の顔が思い浮かんだけれど、彼らがどこにいるのかすらわからない。


 拠点を日本に移すと父さんは言っていた。きっと一族は散り散りになってしまっているだろう。僕は今まで自分からみんなに連絡をすることがなかった。いつも皆が気にかけてくれていたんだということに、こういう状況になって初めて気づいた。


 一族が嫌いだ、人間が嫌いだと言っていられたのは、周りが僕を支えてくれていたからだ。そんなことに気づかなかったなんて…。思わず深くため息をつく。


 僕はどうしたらいいんだろうか。なによりもまず、彩乃にもっとちゃんとしてあげたいのに。どうしてあげたらいいかわからなくて、今までのツケが回ってきた感じだった。


 途方に暮れて空を見上げていたら、隣から声がした。


「あなた。神様は居ますよ」


 声の主は小柄な老人で…僕を優しい目で見ている。


「神様はいるんです。だから元気を出してください」


 その言葉に僕はかなり昔に亡くなった恋人を思い出した。


『神様はいるのよ。いつでも見守っていてくださるの』


 彼女は熱心なクリスチャンで、吸血鬼の僕に神様の存在を教えようとしていた。僕は馬鹿げていると思って取り合わなかったけれども。

 

 僕がまじまじとその老人を見ていると、その老人は僕に頷いてみせた。


「世の中、辛いことばかりじゃありません」


 一瞬、僕は見ず知らずのこの人に、僕と彩乃のことを洗いざらい話したくなる欲求に駆られて、押しとどまった。人間に僕らのことを話しても仕方ない。そんな風に思った。


「元気を出してください」


 そう言われた声にお礼を言って、僕は立ち去った。これが後に僕らの祖父となる田島牧師との出会いだ。


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