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Red Eyes ~ 吸血鬼の落ちどころ ~  作者: 沙羅咲
特別番外編 I I
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The Previous Days 前編(4)

 幸い一年弱の水商売で蓄えはあったから、僕は在宅でできる仕事を探すことにする。考えた末に、いくつかの出版社を回って翻訳の仕事がないか聞いてみた。


 いろんな言語を使えることを武器にして、彩乃を背負いながら一生懸命歩きまわったところ、ある小さな出版社が試しにと翻訳の仕事をくれた。


 日本語から英語へ。英語から日本語へ。少しばかりの翻訳だったけれど、その出来に満足してもらえたのか、単発で少しだけ仕事がもらえるようになった。


 僕は彩乃と二人で静かに暮らしたかったのに、周りがそうさせてくれなかった。


「ねぇ。トシヤ~」


 酔っ払った女の声。


「うるせぇぞっ!」


 隣の男の怒鳴り声。


 夜更けに訪れる声に辟易とする。どうやら僕の居場所を誰かから聞きつけてきたらしい。夜な夜な酔っ払った女が現れるようになった。


「ねぇってば。ここの場所を聞くのにお金払ってるんだからねっ! 顔ぐらい見せてくれたっていいじゃない」


 僕はため息をついた。どうやら僕の情報を売った奴がいるってことだ。そのまま、女が帰るまで息を潜めてやり過ごし…僕は彩乃と二人、夜逃げ同然に引っ越すことにした。


 荷物は僕と彩乃のわずかな洋服に、ノート型のパソコンが一台。携帯電話。そんなもんだ。引越し費用を出すことと天秤にかけて、後のものは全部捨てた。


 と言ってもうちにあったのは、安いティーカップがいくつかとヤカン。粗大ごみの日に拾ってきた少々傾く机と、古本屋の裏に捨ててあったのを拾ってきた何冊かの本。僕の仕事用だった普通じゃ着られないような色のスーツが何着か。そして大型犬用の檻だ。


 他には何もない。 


 いっそのこと田舎へ行けば住居費が安くなるのではないかと、東京から少しばかり離れた県へ引っ越した。必要があれば出版社まで二時間程度。そこでまた安いアパートを借りて、僕らは暮らし始めた。




 携帯電話が鳴るのは出版社からだ。


 僕への依頼はいつも急で、納期が短いものが多い。普通の人間だったらこなせないような仕事ばかりだった。


 幸いなことに僕は数日徹夜でも平気だったから、大抵の納期を守ることができる。


 値段を安く設定されている上に、単発のものばかりであまり儲からないけれど、それでもなんとか安いアパートの家賃を払える分ぐらいは稼ぎ出すことができていた。


「もしもし。山形さん?」


「はい。そうですけど」


 僕は山形朔良という偽名を使って、翻訳の仕事を請け負っていた。


 名前を訊かれて、たまたま傍にあった山形さくらんぼという箱を読み上げただけだ。いくら何でも「さくらんぼ」っていう名前はまずいよな~と思って、途中で止めたら、サクラになってしまった。漢字は後から当てはめたものだ。


 まあ、どうでもいいさ。


 電話の相手はいつも僕に突然依頼してくる杉森さんだった。若い男性だ。


「お仕事のお願いなんですけど、日本語から英語への翻訳、70ページ分。今晩中で」


「はい? それ、あまりにも酷い納期じゃないですか? いくら僕でも…」


「明日の朝一まででいいですから。あの、特急料金上乗せしますんで」


「ちなみに一ページ、何文字ですか?」


 翻訳の場合は、日本語から英語だと一文字いくら、英語から日本語だと一単語いくらで換算されて翻訳料が決まる。


 電話をしてきた編集者がぐっと詰まった。


「えっと…言いにくいんですけど…1600文字で…」


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。それってマックス文字数の原稿じゃないですか」


 電話の向こうが静かになったかと思うと、打って代わって軽めの女性の声が聞こえてきた。


「あ~。山形くん? ごめんね。突然で。いつも突然だけど。今回、ちょっとこの子がミスっちゃって、翻訳の依頼をかけ忘れてたのよ~。せめて下訳だけでもやっておかないとダメって、先生が怒っちゃってさぁ。ホント、助けると思って。ね?」


 つまり僕は翻訳者として名前が載る先生の前に訳しておく係なわけだ。ま、いつものことだけどさ。


 電話を代わったのは編集長の田中さん。押しが強いタイプで、とにかく突っ切る。


 でも今回はいくら僕でも無理だよ。


「田中さん、これから僕が使える時間って、寝る時間を入れなくても24時間ないですよ? 計算したら1分間に80字ぐらい訳し続けないといけないって、無理ですよ」


 さすがの田中さんも黙り込んだ。


 でも、きっと僕に頼んできたっていうことは、誰もが断ったんだろう。そりゃそうだ。普通の人間なら無理だ。仕方ない…。


「明日の朝までにできるだけやります。残りはできたところから順次送ります。それでどうですか? その代わり料金は超特急料金として通常の三倍」


 田中さんが唸った。でも僕の翻訳料は本気で安い。生活していくにはぎりぎりだ。三倍貰って、ようやく少し名前が知られ始めた翻訳家ぐらいの値段になる。こういうときぐらい要求してもいいだろう。足元を見ているとも言えるけれど、こちらにも生活がある。


「その条件でよければ引き受けます。そうじゃなかったら、いくら田中さんの依頼でも出来ません」


「明日の朝までにどのぐらいできる?」


「少なくとも1/3。多ければ半分。それでも僕より早く訳せる人、多分居ないですよ?」


 これは事実だ。僕だったら飲まず食わず、寝ずに動けるからね。


「あとは分散させて依頼するしかないですけど…それする時間がないんじゃないですか?」


 何人かで手分けして翻訳するためには、ある程度訳し方を決めておかないと、同じ単語に違う訳語を当ててしまう場合がある。しかし話の流れからいくと、そんなルールを作っている時間はなさそうだった。


「どうします? どうせ下訳を貰う先生のほうも、一気に見られるわけじゃないでしょ」


 言うだけ言って、僕は黙り込む。お互いの沈黙の後、田中さんが折れた。


「今すぐ、データで送るわ。それでいい?」


「はい。どうぞ」


 僕はそう言って引き受けた。


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