The Previous Days 前編(3)
「ねえ? トシヤ?」
隣の赤い唇をした女性が話しかけてくる。ホストになって9ヶ月ぐらい経ったころだ。
「そうですね」
僕は適当に返事をした。トシヤっていうのは僕の源氏名だ。この店での名前。適当なものが思いつかなくて、本名を別読みした。芸がないけれど仕方ない。
僕の横に居る彼女はなぜかうれしそうな顔をした。なんだっけ? なんの話をしていたか、全然記憶がない。
それでも彼女たちは金づるだから邪険にはできない。僕はあいまいに薄っすらと笑ってみせた。とりあえず笑っておけば、ごまかせる。そんなことを僕は覚えていた。
「じゃあ決まりね。この後、いいわよね?」
女性が流し目を送ってくる。どうやら適当な返事がまずかったらしい。
「えっと…この後?」
とたんに女性の眉がきゅっと上がる。
「この後、付き合ってくれるって言ったじゃない」
そんな話をしてたのか。僕が怪訝そうな目で見れば、彼女が媚を売るように微笑んだ。
「もう。仕方ないからシャンパン開けちゃう。ね? それからこの後ももちろん私が出すから」
そう言われて断れず、僕はこの女性と店が閉まった後に出かけることになった。いわゆるアフターだ。
普段はすべて断っているアフターに、僕は初めて行くんだと伝えれば、女性は上機嫌になった。僕のお客さんの中で彼女は上客の部類だから、たまにはこのぐらいのサービスをしてもいいだろう。
そう思ったのもつかの間。すぐに後悔することになる。
とにかく振り回された。カラオケに行き女性の歌を聞かされ、僕も適当に歌わされ、それから朝まで開いているバーに行き酒と愚痴に付き合う。最後はラブホテルにつき合わされそうになったので、そこだけは丁重に…というか、強制的にお断りした。
精神的にくたくたになって、安アパートにたどり着けば…部屋の中で待っていたのは、檻に入った彩乃だった。檻の中から彩乃が僕に手を伸ばす。
いつもは朝になる前に帰ってきて、檻から出して、そしてミルクをあげている。今日は帰るのが遅くなったものだから、お腹が空いたんだろう。
悲しそうな顔をして僕をじっと見ながら、僕に手を伸ばしている。その彩乃を見て、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。
僕は…何をやっているんだろう。彩乃を頼むと両親に託されたのに。赤ん坊の彩乃を檻に入れて置き去りにし、自分は人間の女たちの相手をして。そして彩乃を飢えさせている。
ふと気づいた。彩乃はもう二歳近いのに、まだミルクを飲ませていた。人間だったら離乳食を食べさせているんじゃないだろうか。
いつの間にか彩乃は掴まって、二本の足で立てるようになっていた。僕は妹の成長すら見ていない。
それに…彩乃はまだ言葉を発していない。
当たり前だ。言葉を学ぶ機会がない。彩乃が起きている時間帯、僕は彩乃を檻に入れて出かけていて、僕が帰ってくれば彩乃は寝ている。
しだいに悲しい気持ちになってきた。僕は本当に何をしているんだろう。のろのろと彩乃の檻の鍵を開けて、彩乃を出す。その小さくて柔らかい身体を抱きしめた。
「ごめん。彩乃…。ごめん」
僕は…いつの間にか彩乃を、置物か、ペットか、何かそんなもののように扱っていたんだ。大事な大事な妹なのに。本当に大事に思っているはずなのに…。
僕が抱きしめていた腕を離して、彩乃の頬に手を添えれば、彩乃が僕の手を取った。小さな小さな手が僕の人差し指を握り締める。血を飲みたいという彼女なりの合図だった。
僕は小さな手に導かれるままに、指を口の中に入れる。小さな口が僕の指を固定すると、ぷつりと噛まれる感触に続いて、小さな舌が僕の指を嘗め回した。
されるままに飲ませていると、すぐに満足したような笑顔を浮かべる。
「彩乃」
彩乃が僕をじっと見る。
「君の名前は、あやのって言うんだよ」
ゆっくりと、諭すように言ってやれば、彩乃の目がぱちぱちと瞬く。
「僕は君のお兄ちゃんだからね」
僕の言っている言葉がわからないのだろう。彩乃が小首をかしげた。
「だぁだぁ」
小さな口が意味の無い音を発する。それが少し悲しくて、僕は再びぎゅっと彩乃を抱きしめた。
ダメだ。今の生活では、彩乃を不幸にする。僕は僕一人じゃない。彩乃を、妹を守って、きちんと成長させないと。
その日の夕方、僕は店に連絡を入れて、辞めることを伝えた。




