The Previous Days 前編(1)
バブルが終わり、就職氷河期といわれ始めたころ。日本のあちこちにゆるい雰囲気が漂っていた。あくせく働く時代は終わり、マイペースが推奨され始めていたころだ。
僕は赤ん坊の彩乃を抱えて途方に暮れていた。彩乃は僕の妹だ。まだ歯が生え始めたぐらいの赤ん坊。
着の身着のままで、ぼーっと目の前にある汚くて臭い川を見ながら、秋の夕暮れのベンチに座りこんでいた。財布に入っているのは一万円札一枚と小銭。まあ、一万円札があっただけでも幸運だった。
二十代半ばの父親が赤ん坊を抱えて困っている図。多分、傍から見たらそんな感じなんだろうな…と思うけれど、人目を気にしている余裕が今は無かった。
僕らの両親が亡くなったのは、数日前。葬式もできず、途方に暮れていたところにやってきたのが借金取りだった。証文を見せられて、いつのまにか抵当に入っていた家から出ていけといわれたのが今日の午前中。そして今に至る。
腕の中の彩乃は静かにすやすやと眠っている。考えてみたら、彩乃に食事をさせたのはいつだろう? とりあえず人間の赤ん坊にやるように、粉ミルクをお湯で溶いて冷まして飲ませていたけれど、哺乳瓶も何もかも置いてきてしまった。
「まずは哺乳瓶か…」
僕は店が閉まる前に、彩乃を抱えたままドラッグストアへと向かった。
哺乳瓶に粉ミルク。それに紙オシメ。そんなものを買えば、どんどんお金が無くなっていく。これでは有り金が底をつくのもすぐだ。
どこかで仕事を見つけて、家も見つけないと。まさか彩乃にずーっと野宿を強いるわけにはいかない。
レジでお金を払いながらため息をついたところで、彩乃が泣き出した。
「ふぎゃぁ」
なんだか猫みたいな鳴き声だ。
「あらあら。赤ちゃん、お腹が空いちゃったのかな? それともオシメが濡れたかな?」
レジのおばさんが、彩乃にニコニコしながら言う。
「そろそろミルクをあげないといけないのに切らしてしまって…」
そう伝えれば、おばさんはきょろきょろとあたりを見回して、お客が僕以外にいないことを確認すると、
「裏でミルク、作っていく?」
と声をかけてくれた。
渡りに船とはこのことだろう。思わず期待を込めて頷けば、おばさんが従業員控え室みたいなところに案内してくれた。
窓もなく狭い部屋には、形ばかりのテーブルと背中の一部から中身が見えている古いソファー。けれど部屋の隅にはシンクと小さなコンロがあってお湯も沸かせる。
僕はお礼を言って少量の湯を沸かして彩乃のミルクを作り、冷ます間におしめも変えた。おばさんは僕の様子をちらりと見てから、またお店のほうへと戻っていった。
彩乃をあぶなっかしい手つきで抱えて、ミルクをあげれば、小さな手を哺乳瓶に添えるようにしてきゅっきゅっと音がしそうなぐらいの勢いで、ミルクを飲んでいく。
よっぽどお腹が空いていたみたいだ。凄い勢いで飲み終わったけれど、彩乃はそれでは満足してくれなかった。全部飲んだのに。まだ足りないという顔をして僕を見る。
あまり飲ませたらお腹が一杯になりすぎるんじゃないかな…とか。いやもう少しだったら大丈夫かも…とか。そんなことを迷いながら、僕に手を伸ばす彩乃に、僕は自分の指を掴ませた。
彩乃が嬉しそうに僕の人差し指を小さな手で握り締める。かわいい。本当にかわいい。
邪気の無い笑顔はとてもかわいくて。それがこんなところで家もなくて、着替えもなくて路頭に迷っているかと思うと、本当に泣けてくる。
彩乃は僕の人差し指を嬉しそうに握り締めて、そして自分の口に入れた。小さな彩乃の口。まだ食べ足りないといういうように、ちゅっちゅっと僕の指に吸い付く。
思わず頬を緩めて彩乃を見ていれば、鋭い痛みが指に走った。
指の痛みに驚いて落としそうになって、慌ててしっかりと抱きなおして彩乃を見れば、赤ん坊は僕の指に吸い付いつきながら、わずかに生えた二本だけの歯で噛み付いている。
僕の血を…吸っている?
しばらくちゅっちゅっと吸っていたかと思うと、満足したように僕の指を手放して、くたりと寝入ってしまった。
自分の指をじっくり見たけれど、すでに傷は癒えていてよく分からない。
「彩乃…」
そう。僕らは人間じゃない。人外。アヤカシ。吸血鬼。ヴァンパイア。人からは、そんなふうに呼ばれる一族だ。
僕らの一族の母乳がどういう組成になっているかわからない。しかし彩乃の反応を見るに、きっと人間の粉ミルクだけでは足りないのだろう。




