第2章 驚きの基準(7)
「イギリス英語とアメリカ英語だと、読み上げたときに文のトーンが違うし。単語自体が違うのがあれば、発音が違うのもある。文法も微妙に違うところがあるし。
それから単純にイギリス英語って言っても、BBC放送で使っている英語と、方言だとまた違うし。
たとえばロンドンの下町でよく使われているCockneyなんて、エイがアイになったり、hが発音されなかったりするから、意外に戸惑うよ」
彩乃が目をパチパチとさせる。
「えっと…例えば数字の8は、アイトになる。だから『これいくら?』って訊いたら『アイティナイン』と言われたりする。答えは89ペンス。昔はポテトをポタイトって言ってたしね。今はメディアの影響もあって少し改善されてるけど」
そういやコヴェント・ガーデンの屋台でベイクドポテトを食べようとしたら通じなくて、「ポタイト?」って尋ねられたことがあったっけ。かなり昔だけど。
「アメリカ英語にもあるの?」
彩乃の言葉に僕は頷いた。
日本で習っている英語はアメリカ英語が主流で、ABC放送などの英語が参考にされているけれど、アメリカに行くとそれぞれの土地で訛りは存在する。
僕が知ってる某ニューヨーカーなんて、日本でのニュース、英語でNewsを『ぬーず』って発音するから、裸のヌードと区別ができないんだよ。まったく同じ発音なんだ。そして彼はそれをよく下ネタにしていた。まったく。
僕は思わず苦笑した。
「彩乃…僕にこの話をさせたら、何時間でも語っちゃうよ? 僕はいいけど」
彩乃が慌てたように口に手をやった。「あっ」って奴だ。
「課題…やらないといけないんでしょ? ほら。とりあえず自力でやってごらん」
僕は我ながら甘いなぁと思いながらも付け足した。
「うまく英語にできないとこは、手伝ってあげるから」
言ったとたんに、彩乃がにっこりと笑う。それはもう嬉しそうに。
「ありがとう! お兄ちゃん」
そしてカリカリとまたシャープペンで翻訳を始めた。多分、後からパソコンで打ち直すんだろうな。
カリカリという音とと、雨音を聞きながら、僕はふと気づいた。
「総司は?」
彩乃が顔をあげる。
「土方さんが…つれて行っちゃった…」
あ~。
寂しそうな彩乃の頭をなでてから、こっそりとため息をつく。
デイヴィッドたちの気配もない。どうやら一緒に遊びにいったようだ。夕方だしね。これから大人の時間ってやつだな。
レイラは上にいるんだろう。たまに椅子を動かす音がする。僕は紅茶を入れてから、彩乃の横でたまに手を貸しつつ、のんびりと過ごしていた。
まるで幕末に行く前に戻ったみたいに静かだ。
やっと彩乃の課題が終わったころ、デイヴィッドたちが戻ってきた。ただし…土方さんだけいない。
僕は眉を顰めた。
「土方さんは?」
デイヴィッドが意味深に笑う。
「女の子…口説いてたから置いてきちゃった。上手くいったら、今晩は帰ってこないかもね~」
いやいや。それ、まずいよ。現代社会に慣れてないんだから。
「大丈夫よ。帰りのタクシー代は使わないようにって言って渡したし。いざとなれば、電話がかけられるように携帯電話を渡してきたわ~」
えっ。いや…。それも不安だ。果たして携帯電話…使えるんだろうか。
僕が難しい顔をしているとデイヴィッドがぽんぽんと僕の肩を叩く。
「マスター、心配しすぎ。彼も大人なんだから。大丈夫よ」
そうかなぁ。いや。でも…。
僕の横では彩乃が顔をしかめていた。
「総司さん。香水くさい」
総司が慌てて、パタパタと洋服をはたく。確かに。ちょっと匂いがする。人間なら気づかないぐらいかもしれないけれど、僕らはね~。ましてや彩乃の嗅覚はかなり鋭い。
「ソージ、女の子に言い寄られてたもんね~」
デイヴィッドの言葉に彩乃の目が見開かれて、そしてふっと細められる。
「あ、彩乃。大丈夫。ちゃんと断ったから」
彩乃はじっと上目遣いで総司を見て、それからふぃっとそっぽを向くと、ダイニングテーブルの上にあった資料一式を持って教会堂のほうへ行ってしまった。
はぁ。
総司が情けない顔で僕を見るから、僕は肩をすくめた。
「ま、いいんじゃない? ちょっとぐらい嫉妬させておけば? やましいことなんて無かったんでしょ?」
「当たり前です!」
総司はそう言いきって、彩乃の後を追って教会堂のほうへ消えた。
やれやれ。
「彩乃もこのぐらいで怒ることないのにね~」
デイヴィッドが呆れたように言う。ジャックも頷いた。
「ま、彩乃にとっては嫉妬なんて初めてなんじゃない?」
僕はそう言って、ダイニングの椅子に再び腰掛けた。あの二人のことは放っておいても大丈夫だろう。
本当に大丈夫かなぁ。土方さん…。




