蓮の声
近くのコンビニまで自転車を走らせ、切らしていた酒のつまみと晩飯を調達する。
空を見上げると、先週から続いていた雨が止み、ようやく秋晴れの空が見えた。それなのに、この団地はどんよりとしていて暗い。
築四十年もたてば、そんなものか。
役職者が辞めた穴埋めで、急遽地方に飛ばされた。職場に近くて、即入居できればどこでもよかった。それからというもの、コンビニ弁当とビールが夕飯の定番になった。
渋る不動産会社に無理を言って契約した物件だから、文句は言えない。
駐輪場に向かって自転車を押していると、頭上から強い視線を感じた。
反射的に顔を上げ、視線の主を探す。
小学校低学年くらいの女の子がベランダにぼうっと立っていた。日が落ちたとはいえ、まだ気温は高く、室外機のある場所は暑いだろうに。
一体何をしているんだ?
欄干のせいで顔は見えないが、何をするわけでもなく棒立ちのまま、俺をじっと凝視していた。
目を逸らす様子もなく、居心地が悪い。
「こんにちは」
このご時世、見知らぬ小学生に挨拶するなんて普通はやらない。不審者だと思われても自業自得だ。
だが部屋の位置からして、あそこは俺のお隣さんだ。ご近所付き合いもあるだろうと、一応挨拶しておいたほうがいいと思った。
彼女は微動だにせず、その場に立ち尽くしていた。ツインテールの髪だけが、風に揺れている。
知らない人とは話さないように教育されているのだろう。返事がなくても気にせず、俺は団地の階段を上がっていく。
転勤でここに来るまでは、外食か彼女に作ってもらうのが当たり前だった。こっちに来てからは忙しさもあって、自炊することもなくなってしまった。
――――さすがにコンビニ飯ばっかりじゃ、太るよなぁ。
去年、人間ドックで引っ掛かったばかりだ。
そう思いながら玄関の鍵を開け、ふと隣の家を見る。この団地内で子どもがいる家庭にしては、質素な玄関先だ。
俺の左隣の家なんて、玄関前に小学生の女の子が好みそうなカラフルな傘や、三輪車が廊下に放置されている。
共用スペースに物を置くことは禁止されているはずだが、この団地は昭和で時間が止まったように緩い。
――――隣の奥さん、俺より若かったはず。
引っ越して数日経った頃、隣の奥さんと玄関先でばったり出会い、軽く挨拶をした。彼女は俺より若く、二十代前半のようだった。
小学生の子どもがいるようには見えなかったが、早くに結婚したのかもしれない。
まあ、単純に親戚の子が遊びに来ているだけという線もあるか。
「ま、いっか」
頭から疑問を追い出し、テーブルに鍵と弁当を置いた。
スマホを片手に、見る気のないテレビをつける。仕事の疲れからか、溜息がこぼれる。何気なくチャンネルを変えると、突然蜂の巣が映った。
「うわぁ、きもっ!」
反射的にリモコンのスイッチを切ると、青褪めた自分の顔が画面越しに浮かぶ。
全身に鳥肌が立ち、背中に冷たい汗が伝った。
あの無数の穴、密集、群れ、ああいうのを見ると息が詰まって冷や汗が出る。
[[rb:集合体恐怖症 > トライポフォビア]]というらしい。
それなのに目が離せなくなるのは、どうしてなんだろう。
そんな俺が本気で卒倒しかけたのが、コモリガエルというカエルだ。
特殊な繁殖方法をとるそのカエルは、産卵後、雄が雌の背中の穴に無数の卵を貼り付け、そこで孵化させる。
皮膚の中を蠢き、背中の穴から飛び出す小さな蛙たちを見た瞬間、俺は思わず嘔吐してしまった。
あの蛙は生きるためにそう進化したに過ぎないが、俺にとってはあまりにも衝撃的でおぞましかった。
その映像を思い出しただけで、一気に食欲が失せる。
「いいや、今日は先に走りに行こうかな。風呂入ってから飯にするか」
団地の近くに、ジョギングコースにぴったりの自然公園がある。
規模が大きく、休日には多くの人が訪れる場所だ。いつも同じ顔ぶれとすれ違うので、皆お決まりのコースなのだろう。
俺はジャージに着替え、自然公園を一周することにした。
そういえばこの公園には蓮池があった。できればこの時期は近寄りたくない。
枯れ始めた蓮の花托が項垂れ、無数の穴から覗く種は、一昔前に流行った「蓮コラ」の元ネタだ。
花托にいくつもの穴が空き、そこから種が覗いている。
それを想像しただけで、全身に鳥肌が立つ。
ひまわりも蓮も、花が咲いている時は綺麗だが、萎びた時の落差が激しい。
死の造形が他の植物よりも残酷だ。
あの項垂れた姿は腐乱した首吊り遺体を連想させ、痛々しくおぞましい。あんなものが大量にあると思うと、パニックになりそうだった。
あの穴から種が落ちる瞬間なんて見たこともないが、なぜかコモリガエルが頭をよぎった。
「………?」
蓮池の方角から、何人かの男女の話し声が聞こえた。内容までは聞き取れないが、ここで人の気配を感じたのは初めてだ。
この先は不良の溜まり場にでもなっているのだろうか。
なんとなく気になって立ち止まり、ペットボトルの水を一口含む。そういえば蓮池の真ん中には東屋があったな。
――――近付かないほうがいい。
頭ではそう思っていても、好奇心を抑えきれなかった。
俺は蓮池へと続く小道に近付き、耳を澄ます。
「いくなら」
「どうする」
「あそこがいい」
「どうしよう」
言葉は聞こえているのに、文脈が理解できない。聞いたそばから、ぼろぼろと抜け落ちていくようだ。
靄のかかった頭の中で、抑揚のない複数の人の声が、蚊の羽音のように聞こえる。
それが不愉快でたまらなかった。
俺は急に気味が悪くなり、確認する気を失って引き返した。
❖❖❖
――――最近、子どもばかり見かけるな。
子連れ世帯が立て続けに引っ越してきたのだろうか。老夫婦が小さな孫、いや曾孫と遊ぶ姿も見かけるようになった。
出勤途中、団地の廊下で子どもの後ろ姿を見かけたり、踊り場ですれ違うことも多くなった。
この少子化の時代に子どもが増えるのは喜ばしいが、時期が妙だ。
俺自身が慣れない地方での仕事に追われ、周囲を意識していなかっただけかもしれない。
それからしばらくして。
ジョギングから帰るたびに、団地内の公園で数人の子どもたちが遊ぶ姿を見かけるようになった。
――――この団地の親って放任主義が多いのかな。
団地内なら安全だという考えなのか。それとも人口が少なく、ご近所に見知らぬ人などいないから大丈夫だと思っているのか。
だが、切れかかった街灯の下で遊ぶ子どもたちの姿は、不気味だった。
❖❖❖
団地内の自販機の隣は喫煙所になっている。昭和に建てられたここには、ちゃんとした喫煙スペースはなく、屋外にぽつんと設置されている。頼りない屋根と仕切りがあるだけの簡素な場所だ。
「こんばんは」
煙草を吸っていると、缶コーヒー片手に隣の旦那がやってきた。
確か、隣は中山と名乗っていたはずだ。
「あ、こんばんは」
「どうも。阿部さんですよね」
「そうです。隣の……中山さん?」
俺より年下の中山さんは、童顔で話しやすそうな人だった。どちらも仕事帰りの一服で、軽く話題を振る。
「お恥ずかしい話なんですが、最近太りだしちゃって。夜走るようになったんですよ」
「ああ、いいですね。僕も阿部さんを見習おうかな」
「ははっ。そういえば最近この団地、子どもが増えてますよね。ジョギング帰りに団地の公園で遊んでるのを見て、時間も遅かったんで覚えてるんですけど、子連れ世帯が引っ越してきたんですかね」
廊下でもすれ違ったりして、と言って様子を伺う。日が暮れた喫煙所に、青白い自販機の明かりが差し込む。中山さんは煙を吐きながら笑った。
「ああ、たくさん増えたでしょう? あの子たち全員、団地の子なんですよ。自然公園の蓮にお願いすれば、一人ずつ来てくれるんです」
「え?」
意味が分からなかった。
中山さんは爽やかな笑顔で普通の人に見えるが、もしかしてスピ系の人なのか?
案外こういうタイプが新興宗教にハマるのかもしれない。
「子どもはいいですよ。無邪気だし、働く活力になるっていうか。夫婦ともども頑張らなくちゃって思うんです。実はうちの子も、あの池から来たんですよ。阿部さんも子育てどうですか?」
俺は張り付いた笑顔に気味が悪くなり、曖昧に笑って煙草を消し、その場を離れた。
――――何言ってるんだよ。蓮にお願いすればって一体なんなんだ。
俺は集合体恐怖症のくせに、気味の悪いぶつぶつや無数の穴を見たくなる。胸の奥が詰まるように苦しくなり目を逸らせない。吐き気と、あえてそれをみたいという衝動が同時にこみ上げる。
おぞましさに背筋がゾッとするのに、確認せずにはいられないんだ。
好奇心と嫌悪感が入り混じっているからこそ、こんな矛盾した行動を取ってしまうんだろう。
だから、俺は蓮池に行って中山さんの言葉を確かめることにした。
「ただの蓮池だろ。ぱっと見て帰るだけだ」
一度見れば納得する。
あの日の話し声は空耳で、当然ながら不思議な力なんてなく、ただの公園に決まっている。
そう、蓮池に萎びた花托が項垂れているのを確認すれば、今夜は安心して寝られる。
きっと中山さんが冗談で悪ノリしただけだ。
新興宗教やスピ系の話なら、今後あの家族に関わらなければいい。
俺もいずれは結婚して子どもは欲しいが、彼女も俺と同じく仕事に追われ、忙しくも充実した日々を送っている。
そんなことを思いながら、スマホのライトを片手に、虫の鳴く夜の公園を歩く。
今日に限って誰ともすれ違わないのはなぜだろう。
大きな公園なので、ところどころに街灯はあるものの、蓮池に近付くほど闇が濃くなる。
朝に来ればいいじゃないか、自分でもそう思う。
だが、納得できないまま子どもたちのいる団地で眠るのが怖かった。
細い小道を曲がった瞬間、不意に全ての音が消えた。
恐る恐るライトを向けると、蓮池の真ん中にぼうっと東屋が浮かび上がった。
「なんだよ、気味が悪いな……」
この間は不良の溜まり場かと思ったが、東屋に電灯は設置されていない。
蓮池の東屋までは一本道で、そこに座れば夏には満開の蓮が見られるのだろう。
緊張で喉がカラカラに渇く。
震える手で周囲を照らすが、どれもこれも枯れた蓮が項垂れている。
―――――腐った首吊り遺体みたいだ。
人に言わせれば馬鹿げた妄想かもしれないが、とんでもなく怖い。
あれがいつ顔を上げて、無数の穴を一斉に俺に向けるかもしれないと思うと、頭がおかしくなりそうだった。
そこに何があるわけでもないのに無音の蓮池を進む。
心拍数が乱れ、呼吸が浅くなる。
東屋まで来て、俺は肩を震わせながら息を吐いた。その瞬間、背後から波のように大勢の声が押し寄せた。
たくさんの人間が同時に話す声は、言葉として認識することができない。
「………」
あまりの恐怖に声が出ない。
冷や汗が背中を伝い、硬直した体をなんとか動かして背後を振り返る。
いつの間にか、橋に大勢の子どもたちが並んでいた。
いや、橋だけじゃない。
池から這い上がろうとしている奴らもいる。
――――ああああ。
抑揚のない声が響く。
萎びた花托から、膿のように絞り出された肉片が混じり合い、人の形を成していく。
子どものように見えるそれは、口から上がすべて無数の穴で形成され、俺を見るなり一斉に笑みを浮かべた。
「ぅあ……あ……あっ……!」
そうだ。
俺は、お隣のベランダで見たあの子も、すれ違った子どもも、公園で遊んでいた奴らも、誰ひとり顔を見ていない。
あまりのおぞましさに、記憶が塗り替えられてしまっていたのか?
「パパ」
耳元で、くぐもった声がした。
その瞬間、俺は意識を手放した。
❖❖❖
ベランダに止まった雀の鳴き声を聞いて、俺はあくびをしながら腕を伸ばす。
「うーん。今日は晴天か。雨具の準備は必要なさそうだな」
やっぱり、食生活を変えると朝の目覚めがいい。ジョギングの時間帯も変え、早朝に走るようになった。
それから弁当箱に、冷凍食品のブロッコリーと卵焼き、好物のウインナーなどを詰めていく。
「パパ」
「おー、祐大。今日はお寝坊さんだなぁ。朝ご飯はできてるぞ。お昼はお弁当作っておいたから食べなさい」
そう言って振り向く。
可愛い息子のために朝飯を作って会社に行く、それだけで幸せだ。
足元に甘えてくる我が子の頭を撫でると、ゆっくりと項垂れていた祐大が顔を上げた。
集合した穴の奥から、キラキラと輝く無数の目が俺を見つめている。
大きな口で笑う無邪気な様子に、心が洗われるようだった。
「今日も早く帰ってくるからな。良い子にしてるんだぞ」
そう言って俺は、祐大の頭を撫でた。
蓮の声 了




