名誉②
暗闇の中に、黄金の鎖に吊り下げられる、鎧姿の男が浮かんだ。
鶏冠の兜。青銅巨人と同じ古代エルゲの鎧だ。
英雄、エウメロス。
テルセウスらは一目で確信し、そしてオフェリアに続いて歩み寄る。
エウメロスは力なく口を開く。
「キオネーではないな。我が妻の細腕は、パラスの盾など持てぬ」
その顔は俯いたままで、目は虚ろだった。
男の頭から、鶏冠の兜がぽとりと落ちた。褐色の短い巻き毛で、その顔は、
「テオ……?」
セレネが思わず口にするほど、テオに似ていた。しかしその美しく整った顔立ちはやつれ果て、死人そのままに青白くなっていた。
奥方は、男の前に跪く。遅れてテルセウスらもそれに倣う。
「わたくしはあなたさまの子孫、オフェリアと申します。英雄エウメロスよ」
奥方のうやうやしい言葉に、エウメロスはうなだれたまま答える。
「そなたも私の子孫を名乗るか。おお、わが愛しき裏切り者、キオネーに似たパラシアよ」
エウメロスはくっくと、乾いた笑いを漏らした。
「そなたが私の子孫を名乗るなら、そして慈悲があるのなら、私を永遠の闇に葬ってくれ。この恥ずべき身が誰の目にも映らぬように」
自嘲とともに、か細く言った。
「なぜ、そのようなことを申されます?」
奥方が微笑んだまま静かに問うと、
「裏切りと不名誉の中で死し、怨霊となっては神々の敵として打ち倒された。我が名は嘲笑とともに語り継がれることであろう。そのような声など聞きたくはない」
「わが祖先エウメロスよ、その名誉を回復する機会はございます」
奥方の言葉に、エウメロスは口をつぐむ。
しばしの沈黙ののち、奥方は続ける。
「我々は今、あなたさまの怨敵クレトスと戦っております。彼奴は古代のマギフスとひとつになり、竜骨の王として人々を脅かそうとしております。英雄エウメロスよ。どうかご助勢をいただきとうございます」
エウメロスの顔が、わずかに上がった。
「我が子孫を名乗る者、オフェリアよ。私にはそなたの言葉が私を利用し、陥れるものでないと確信できぬ。よしんばそなたが真実を言っているとしても、私には神々の敵マギフスと戦う資格はない」
「なぜ資格がないと申されますか」
「オフェリアよ、マギフスと対峙する者は神々の栄誉を戴く者であることを知らぬか。名誉を失った私に、その資格があろうか」
「ならばエウメロスよ、太陽の女神の寵児、ヨラケウスの子孫であれば、その資格は与えられますか」
奥方の視線は、後に控えるテルセウスに向いた。
テルセウスは立ち上がった。そして熱のこもった目で、力なき英雄を見る。
「英雄エウメロスよ。私はヨレンの王太子、テルセウスです」
また少し顎を上げたエウメロスが、その目を王子に向けた。その濁った瞳に、わずかに光が戻った。
「おお……、あの時、我が王と見間違えたのは、あなたであったか。ああ、分かる……。あなたは紛れもなくヨラケウスの血を強く継いでおられる」
言葉にも生気が戻りかけたが、ふっと、その目からまた光が消えた。
「だが、我が王もまた私を切り捨てた。あれほど私をいくさに駆り立て、褒賞と名誉を与えながら、その全てを奪い、私の命すらクレトスに差し出した」
「クレトスの魔術がもたらした不和です」
テルセウスは強く返した。
「そうであろう……。だが、奴の魔術は心に隙があればこそ、その威力を発揮するものだ」
悲し気にエウメロスは視線を下げた。
「この私にも奴は魔術を用いた。幻を見せ、夢に入り込み、甘い毒の言葉をささやいた。だが私はその全てを跳ねのけた。一方で我が王は、クレトスの讒言、佞言に屈してしまわれた」
奥方はその微笑みを消した。
「英雄であるあなたへの嫉妬、王位を奪われるのではないかとの恐怖……。心の奥底に持っていた暗い感情ににつけ込まれた」
「我が王のみ心はうすうす感じていた。私の武功に褒美の言葉を与えながら、その目には仄暗さがあった。私を憎んだ、あの父のような」
エウメロスの顔にかかる影が、より深くなったように見えた。テルセウスの横で、セレネは痛ましげに眉を下げる。
「英雄エウメロスよ」
テルセウスが口を開く。この若き王太子の胸には、何に対してか分からない憤慨のようなものが湧き上がっていた。
「私は幼いころよりあなたの物語を聞かされて育ちました。千人の敵を倒す鉄の腕、千里をかける駿馬の足。それだけでなく、あなたの生きた時代、群狼と例えられたヨレンの軍中にあって、決して慈悲を忘れない、気高さも併せ持った英雄だと」
「おお、若きヨラケウスの子孫よ、その慈悲も臆病の証だと罵られた」
その自嘲を押しのけるように、テルセウスはさらに力強く言葉を放つ。
「あなたは名誉を失っておりません、英雄エウメロスよ」
放たれた言葉に、エウメロスはその目をわずかに震わせた。
「この国の人々はあなたを英雄と呼んでいます。クレトスに敗れてもその巨人を乗っ取って暴君を倒し、新しきヨレン誕生の道を切り開いた者として。あなたを称える詩、あなたを描いた絵画、あなたをかたどった銅像は数多くこの国にある」
エウメロスの顔に光が指した。
「英雄エウメロスよ、あなたが立ち上がるのに誰かの許しなど必要ありません。あなたは今でもヨレンの英雄なのです。どうかお力を貸してください。ヨレンの王太子としてだけでなく、あなたの物語を聞いて育ったひとりの男子としてもお願い申し上げます」
エウメロスはその唇を震わせた。
「だが、私は……」
なおもうつむいたままのエウメロスに、今度はセレネが悲し気な目を向けた。
「あなたさまを見ていると、テオを思い出します」
「テオ……」
エウメロスが反応を見せた。
「あなた様と戦ったドラゴンライダーです」
「おお、わが魂を震わせた、あの若者か……」
「彼もまた、家族との軋轢に苦しみ、私や彼の妹弟たちのために戦いに挑みながらも、クレトスの弟子がもたらした不和の魔術によって不名誉に打ちのめされました」
「ああ……、あの者は、驚くほど私に似ていた。見た目だけでなく、その魂も……」
セレネは両ひざをつき、祈るように腕を組んだ。
「彼は大切な人々を守るためにあなたに立ち向かい、神々にその勇気を認められてドラゴンライダーとなりました。そして今、クレトスに戦いを挑んでいます。英雄エウメロスよ、どうか彼とともにクレトスを打ち倒していただけませんか」
エウメロスの、光の戻った目が動き、セレネに向けられた。
「私がキオネーと見間違えたのはそなたか……。そなたの名は?」
「セレネ・エウメラドゥと申します。王太子テルセウス殿下の許嫁であり、あなたさまの子孫です、英雄エウメロスよ」
エウメロスの顔が上がった。その目は見開かれていた。
「あの若者もエウメラディスと名乗った……」
奥方が微笑む。
「その名は、あなた様の名から取った、あなたさまの子孫が名乗る名です。わたくしもまたエウメラドゥ……。あなたさまの子孫の娘。かつて王妃として、また聖戦士としてヨレン王のお傍に仕えいたしました」
「おお……。我が子孫たちは我が名を氏族の名としたというのか」
エウメロスの声が震え、その響きに瑞々しい生気が蘇っていった。
「そして分かるぞ。オフェリア、そしてセレネよ。そなたらは確かに私とキオネーの血を継いでいる。そして王子よ、あなたもまた……。それだけでない、この地には、我が血が大樹の枝葉のように、多くの者に引き継がれている!」
暗闇に閉ざされた世界に変化が現れた。天を覆う厚い黒雲が稲光とともに割れて、その隙間から太陽の光が差し込む。
「ならば本当だったのだな。あの勇敢なる若者、ヤルハの勇者が私に告げた言葉も。キオネーは私に操を立て、我が子を産んで死んでいったと。そして、あの若者……、おおヤルハよ! 彼もまたわが子孫! 彼こそ我が魂を継ぐ者! 魂の息子! あのような若者がわが血を継いでいることの、なんと誇らしきこと、なんと頼もしきことか!」
エウメロスを縛る鎖も雷光を発して砕け散った。
その時には、世界を暗闇に閉ざしていた黒雲は群雲と散り、美しい青空に陽光が輝いていた。
エウメロスがその身を落としたのは、コバルトブルーの海を臨む、緑の丘だった。
「おお、ここは……」
彼の傍らには、彼を吊り下げていたニレの大木があった。
地に膝をついているエウメロスに、それまで彼を縛っていた稲妻の鎖から変じた、白い狼犬が鼻を寄せる。
「ファティア、我が友、我が導き手……」
『待っていたよ、エウメロス』
狼犬から、少女の声が放たれる。
『彼女も、ずっとずっと、長い間、君を待ち続けていた』
ファティアが鼻を向けた先、エウメロスが背後を振り返ると、ニレの木の影から、純白のキトンをまとい、黒く美しい巻き毛を胸元に垂らした女性が現れた。
『この丘の上、この木の下で、あなたはわたくしに愛を告げてくださいました』
その慈愛に満ちた顔は、水晶の奥方やセレネと瓜二つのものだった。
「キオネー、我が愛しき妻……」
『エウメロス、おお、わたくしの永遠の勇者』
彼女は身をかがめてエウメロスに抱きつき、エウメロスのたくましい両腕も、彼女の細い体をそっと抱きしめた。
「なんということだ……。そなたは死しても私に寄り添い続けてくれたというのか。ああ、何という長い間、そなたを苦しめてしまったことか。その罪だけで、私はマガファの永遠の責め苦に値するだろう」
『いいえエウメロス。全てはわたくしたちの罪がもたらしたもの。あなたの目覚めを待ち、その許しを乞うのに、どれだけの月日を経ても苦とはなりません』
エウメロスは妻の肩を抱いて立ち上がり、テルセウスらに向き直る。
「妻よ、そなたの産んだ子は、すばらしき子孫たちを残してくれたのだな」
『わが父王も、その後を継いだ弟も、わたくしの願いを聞き届け、あの子を立派に育ててくださいました。あなたの名に恥じぬ偉丈夫に育ち、多くの子をなし、その子孫からも、ヨレンを支える多くの英雄が現れました』
『エウメロス』
ファティアがエウメロスを見上げながら言葉を発した。
『その子孫たちと、このヨレンのために、君の力が必要だ。僕が残した力と、マギフスの毒を焼いたペリューンの炎を受けて、蘇ってほしい』
「ファティアよ、おお、わが導き手よ。私も神々の栄光のもとに、彼奴との戦いに赴けるのだな」
その顔には、力強く、誇らしい笑みが浮かんでいた。
ファティアの少女の声が厳然たる響きともに告げる。
『エウメロス、怨嗟ではなく義憤によって。深き思慮と曇りなき洞察によって。嘆かれぬ者にすら向ける慈悲によって。勇気と気高さを抱き、狭く険しく正しき道を行け。正しき道を行く者にこそ神々は使命を下される』
天の太陽が輝きを増し、テルセウスらの眼前に白い光の闇とでもいうべきものを作った。
その光の中に、聖戦士たち、軍人たちが並んでいた。
(奥方様、王太子殿下)
彼らは一斉に跪いた。
『ああ、あなたたちも行くのですね』
奥方が、優しくも悲し気にささやきかける。
彼らもまた、光の中に消えていく。
別の方を向く。
そこには、古代の人々にはじまり、近い時代に至るまで、クレトスと戦い続けた人々の姿が。
『ついに、時が来たか』
彼らの顔は、絶望に沈んだ死霊のそれではなかった。長い辛苦から解放された、何か眩しいものでも見るような顔だった。
その中には、不敵に笑うカリゲロスを先頭に、かつて命を捧げて青銅巨人を止めた、ヨレンの魔術士たちの姿もあった。
彼らもまた、光の中に消えていく。
さらに別の方を向く。
狂乱の態で逃げまどっていたヤルハの神官たち。その顔は断罪された人間のように、絶望と諦念に染まっていた。地に手をついた彼らは、その地面に飲まれ、消えていく。
その後ろには、追い回していた、青灰の湖の神官たち。彼らは、諦観と、消えぬ恨みとの間で葛藤するかのような、複雑な表情で大地を睨んだまま、足元から大地に飲まれていく。
その後ろで、やはり大地を睨む、おそらくはクレトスの信奉者だった者たち。
すすり泣きの声が聞こえる。あの、眼鏡をかけた同級生の少女。
駆け寄ろうとしたテルセウスとセレネの肩をつかみ、オフェリアは止めた。
彼女は首を振って言う。
「せめて、冥府への道の途上、マガファの地獄に迷い込まぬことを祈りましょう」
そして、テルセウスとセレネの意識も光に飲まれていった。
寝台の中でテルセウスとセレネは目を覚ました。
『ご苦労様でした、殿下。セレネもよくやってくれましたね』
奥方の声がふたりに響く。
テルセウスもセレネも、顔を曇らせていた。
『あの巨人に眠っていた多くの者は、英霊としてエウメロスに従い、蘇るでしょう。しかし、それもかなわぬ者もいます。祈りましょう。彼らがせめて、正しき黄泉路を歩めることを』
それから奥方は、高らかに念を発する。
『時は来ました。星の影よ、今こそ……』
島船の中、その主のアマルは、目元をぴくりと動かすと、石の寝台に眠る夫にそっと手をかけた。
(時が来たよ、ショウ)
ショールはその目を開いた。
「ああ、分かっている」
ショールは身を起こす。震えるその身をエーテルの膜が波打ち、それに支えられるように、ショールの身体の震えが止まる。
(まだ火は残っている。足りない分は、空を見上げるといい)
アマルは、薄く笑った。
鏡から、白い半透明の光があふれ出した。
青灰の湖に、光の柱が立ち、それは、ルデリアのルーン神殿からも見えた。
そして、それが収まるとともに、バラバラに転がったままの青銅巨人の前に、同じ光が玉のように広がる。
「何だ!?」
「ショール!」
突然のことに身構えた聖戦士たちの前に、リディアが進む。
その目の前で光は輝きを増し、それが収まった時、外套をかぶり杖を手に、ショールがその姿を現わしていた。
リディアは駆け寄り、顔を曇らせ、ショールの姿を見る。後からアレコスやレフテリスらも続いてきた。
ショールの顔は赤黒い痣が残り、破れたズボンから見える傷もそのままだった。
「……大丈夫なの?」
「死にはしないが、あまり大丈夫でもない」
かすれたような声でそれだけ言って、ショールはいまだわずかな輝きを残す鏡を手に、巨人の残骸に向き直る。
「いや、その前に」
ショールは天を仰ぐ。そこには、曇天が広がっている。
「高みの見物と言ったな」
ショールはその黒天に、鏡を向けた。
突然、天が白く輝き、その眩しさに人々が目を覆ったが、
『ウギャアアア……』
甲高い女の声は、リディアたちが聞き覚えのあるものだった。
「アブロヌの魔女!?」
光は黒雲とともに一瞬で消え、陽光輝く蒼天が広がる。
同時に、ショールの鏡の光も膨れ上がっていた。
「切り離して逃げたか。だが、これと、巨人の残骸があれば……」
ショールはその鏡を、巨人の残骸に向ける。
巨人の残骸から、白い半透明の光が溢れ、青緑に錆びたその身が太陽のように輝きだした。
「ちょっとショール、何を……」
リディアが声を上げると、ショールは静かに答える。
「エウメロスの魂は復活した」
そのかすれ声は予言者のごとく厳かに響いた。
「マギフスによって穢されたもの全てを焼き清め、彼の器とする」
リディアも他の聖戦士たちも、その声がショールひとりのものでなく、大いなる存在の意志が含まれていることを感じた。
巨人が赤熱するとともに、それを包んでいた光も花びらのようなものを散らせながら消える。
そして鏡はショールの手を離れて浮き、星雲の眼を作った。
そして鏡が放つ白い光は密度を増して炎のようになり、一対の巨大な腕を形作る。
「英雄は蘇る。全ては精算される」
宣言するがごときショールの言葉とともに、その腕は巨人を包むように、その上にかざされた。
赤熱した巨人は白い輝きに包まれ、光の中で溶けてひとつに集まってゆく。
「姉妹たちの盾が!」
ルーン神殿の聖戦士のひとりが叫んだ。中庭に横たわる死した聖戦士たち。彼女たちの傍らの盾が、巨人に引き寄せられて、芝生を滑り、光の中に入っていく。
溶けた巨人は再び人の形を作る。
それだけでなく、その傍らに槍と盾も形作られていく。
そして巨人は黄金の輝きを放ちながら、槍を取り、盾を取り、ゆっくりと身を起こす。
神殿の者たち、軍の者たち、中庭に出た王太子たち。神殿の外でも、学生たちやルデリアの人々が、立ち上がる美しき巨人の姿を見上げた。
『英雄エウメロスは、今、ここに帰還しました』
奥方の声がルデリアに響く。
そして巨人の白銀の面の中、その両目に、炎のように赤い光が灯った。




