名誉①
王太子テルセウス、そしてその婚約者セレネは、老師オイディプスの案内により、水晶の奥方のもとに案内された。
水晶がほのかに光り、セレネを成長させたかのような美しい聖戦士の姿が現れる。
『御足労いただき申し訳ありません、殿下』
「奥方様、お呼びと聞いて参上しました」
テルセウスは立礼で頭を下げた。セレネもそれに倣う。
『ああ、また成長なさいましたね。わが夫、テルセウス一世陛下にますます似てきている。それにセレネも……。あなたたちを見ていると、かつてのわたくしと一世陛下を思い出します』
「光栄なことです」
『さて、殿下。こうしてお呼び立てしたのは、あの巨人のことで、あなたがたにお手伝いをいただきたいからです』
「巨人のことですか……?」
テルセウスとセレネは首を傾げた。
『あの巨人……、中にあった竜骨が抜け出た今、巨人の抜け殻と言うべきでしょうか。あの中には、多くの古き霊魂とともに、エウメロスの魂もまた封じられています。クレトスを破るためには、彼の魂を救い、その助力を得る必要があります』
「エウメロスの助けを……」
『そのためには、ヨレン王家直系の血を継ぐ殿下と、キオネーの血が色濃く表れた私たちが必要となるのです、セレネ。我が兄の子孫よ』
「では僕たちは、何をすればよいのでしょう」
テルセウスはためらいなく、真っすぐに問うた。
『ああ、迷いなきよき返事です』
感慨深そうに声を放ってから、
『ショールが、あの若きエウメラディスをクレトスの魔の手から救ったように、私はエウメロスの精神に入ります。殿下とセレネにはそれに同行していただき、打ちのめされたその魂を癒し、再び英雄として立ち上がるように求めるお手伝いをして欲しいのです』
「エウメロスの心に……」
『オイディプスの補助もありますので危険はありません。ご同行いただけますか』
「はい」
テルセウスは答えた後、後ろのセレネを見やる。彼女も微笑んでうなずいた。
水晶の奥方は、どこか弾んだ声で、
『オイディプス』
「はい、奥方様」
老師は突いていた杖の先をテルセウスとセレネに向けた。ふたりの目が閉じられ、その体から力が抜ける。固い床に崩れ落ちる前に、その体が宙に浮いた。
扉が開き、戦士長カサンドラと部下の女性聖戦士が入ってくる。
「殿下とセレネ嬢を寝台に」
「かしこまりました、老師」
戦士長らがふたりの身を引き受けると、老師は杖を戻してよりかかる。
奥方の声が響く。
『では、行ってきますよ、オイディプス』
「はい、奥方様」
老師は頭を下げ、水晶の灯りは消えた。
暗闇の中に、テルセウスとセレネ二人だけがいた。彼らは戸惑ったように顔を見合わせたが、すぐに声がかかった。
「こうして人と会うのは本当に久しぶりですね。半世紀は遡れるでしょうか」
聖戦士の姿のままの「水晶の奥方」オフェリアだった。
夢の世界で、彼女の身は水晶には囚われておらず、ふたりに微笑みかけていた。
「こちらへ」
彼女は身を翻し、横顔でふたりをいざなった。
テルセウスとセレネは奥方について歩く。
奥方は語り始める。
「私の生きた200年前と、現代に生きるあなた方とを見比べても、価値観や考え方には様々な違いがあります。2500年も昔となればどうでしょう。もはや同じ人間とは思えないかも知れません」
歩く道の左右に、景色が流れる。平原で交差し合う兵車の部隊。もう片方ではファランクスと呼ばれた密集陣形が、結界を張りながらぶつかり合う。
「今のような豊かで安定した時代と違い、そのころのエルゲはいくつもの都市国家が覇を競う、戦乱の時代でした」
とはいえ彼らは同じ神話の偉大な祖先を持ち、共通する文化を持つ同胞でもあった。戦争にあっても礼節や儀礼があり、相手を殲滅するまで戦うようなことは滅多になく、不必要に残虐な行為も行われなかったという。
「それでも、このころは女子供に至るまで、今では考えられないほど血なまぐさい思考をしていたと言います」
命は軽かった。戦争がなくとも飢えや病でも人は簡単に死んだ。
鉄器も充分に普及していない時代だ。今から見れば、開墾や土地の改良、耕作のための技術も稚拙なものだった。
人が安定した生活を送れる場所は限られ、危険に満ちた未開の原野がすぐそばにある。
国々は豊かな土地や権益、そして国家間の地位の向上のために頻繁に戦争を繰り広げた。人々も義務としてだけでなく、戦利品や権利の獲得のために積極的に戦争に加わった。
当時の戦争は国と国との外交問題を決着させるものであると同時に、経済活動でもあった。
「2千年前、救世主とその弟子たちが神々の本来の教えを蘇らせるまで、悪神マガファも眷属であるマギフスと切り離され、軍神として祀られていました。創世の時代にマガファがもたらした悪徳は、戦乱に生きた人々の倫理観では、必ずしも悪しきものではなかったのです」
それから奥方は足を止め、嘆息する。
前方に、燃える城塞都市の光景が現れた。
「これは、古代ヨレンの最期です」
奥方は冷淡に言った。
「同族意識のある古代エルゲの都市国家間で、国が滅亡にまで追い込まれるような戦争は少なかった。それでも古代ヨレンがこのような末路に至ったのは、当時のヨレンが極めて攻撃的で覇権的な国であり、今見ているような悲劇を他の都市国家にもたらしていたからでした。他国はヨレンを恐れ、憎み、連合を組んで攻めたのです」
テルセウスは切り取られた光景に一度息をのみ、
「奥方様、僕たちはそれを反省すべき歴史として学びました。でも、今思うとそれは……、クレトスの仕業だったのでしょうか?」
奥方は否定の形に首を振って答える。
「いいえ。ヨレンはクレトスに関係なく、エルゲの地に戦火を広げていました。海に面した立地がもたらす貿易の富と、聖戦士をはじめ優れた武具を装備した精兵、他を凌駕する魔法技術……。祖先が神々から託されたものをも、その敵である悪神を崇めながら、殺戮や略奪に利用しました」
目の前の景色が切り替わった。逃れた船の上から、絶望とともに燃える都を眺めるエウメロスだった。
「かように残酷な世界である一方、この時代の戦士たちは名誉や誇りを命より大切なものとしておりました。そこはこの時代のヨレンも同様です。その重みは今の戦士たちの比ではなかった。それをエウメロスは失った」
景色が消えた。
「ふむ、誰かと思ったらお主か、オフェリア」
老人の声がした。
暗闇から現れたのは、黒いローブに身を包んだ、長い黒髪、長い黒ひげの、長身の老人だった。
「カリゲロス師よ、お久しぶりです」
テルセウスもセレネも息をのんだ。その名は、青銅巨人を封じてその命を絶ったという、伝説的な魔術士、それも数百年の時を生きたという魔術師の名だった。
カリゲロスは三人を見やりながら、
「時が来たのは分かっている。ペリューンが影を落とし、雷霆の飛竜が生まれた。なるほど、その上で英雄を目覚めさせようというのだな」
「ご賢察の通りです」
それからカリゲロスはテルセウス王子に目をやり、
「ヨレンの王太子……。名は何と?」
テルセウスは胸に手を当て、
「テルセウスと申します。大師カリゲロスよ」
その言葉に老師は軽い瞠目を見せた。
「ほう、王家はその名を引き継いでいたか」
そして、身を翻して暗闇の中に歩を進めた。
オフェリアがふたりに目でうながし、ともにその背を追う。
カリゲロスは振り向くことなく口を開く。
「わしの知るテルセウスという王子は、その名をいたく嫌っていた」
彼の言うテルセウスは、オフェリアの夫であり、魔王アブロヌと戦った、義勇王テルセウス一世だろう。
「なぜならそれは、白海帝国から送られた名であり、帝国の言葉の響きがあったからだ。さらには、テルセニアとよばれたこの地に由来する名だが、テルセニアも元を正せばアマゾネスの始祖、アルテシアから来ている。男尊女卑の帝国が、何らかの悪意とともに送った名なのだろうと、勘繰りできなくもない」
少し、考え過ぎだと思うがなと、カリゲロスは付け加えた。
「まあそんな名が、あの王子一代で終わることなく……、おっとオフェリア、もし彼が王位に着いたら……」
「テルセウス六世になりますわ、師よ。あれから200年たちます」
「なるほどな。あの繊細でいて、火のように危ういところもあった王子が、それほど後世に名を残したか」
その妻だったオフェリアは何も言わなかった。
カリゲロスは話を変える。
「ここには、クレトスが古代から殺めてきた人々の意志が残されている。その力を吸い取られた魂と言うべきかな」
左右の闇の中、古代の貫頭衣を身に着けた、無数の人々の姿が浮かぶ、皆、無気力にうなだれ、上目遣いでこちらを見ている。男、女、若い者、老いたもの。先頭の方にいる人々は、黄金色の宝飾品、あるいは鎧兜を身に着けている。
「古代ウルの人々……」
テルセウスがつぶやくと、
『我々は、そう呼ばれるようになったか』
ひとり、死んだ目の人々の先頭にあって、なお目に力が残る壮年の男が念を飛ばしてきた。
テルセウスとセレネは立ち止まったが、男はそれ以上何も言わない。
「これ、寄り道しとる暇はないぞ、若き王子よ」
カリゲロスは振り向きもせず歩き続けている。テルセウスとセレネは慌ててその後を追った。
「ここにはあんな風に、無数の魂がある。その中からまず、エウメロスを探さなければならない」
カリゲロスは歩みを止めることなく言う。
「激情に燃えるエウメロスなら、ここのどこにいてもその声は響いた。しかし奴はすっかり打ちのめされ、神犬に囚われている」
左右に次々、死者たちの姿が見える。毛皮の鎧に包まれた古代のアマゾネスたち。比較的近い時代の服装……。おそらく、アブロヌ王の侵攻の時、命を落とした人々。
そしてテルセウスとセレネは、見知った顔に気づく。
眼鏡をかけた少女が、恨めし気にふたりを見ながら、涙を流している。かつてセレネがいじめていたとされた……、そういう噂を流して彼女を貶めようとした少女。テルセウスに恋したという少女だ。
「立ち止まる暇はありませんよ」
オフェリアからそう促された。テルセウスもセレネも、わずかに逡巡しつつ、振り切るように歩みを進めた。
(うわああああ……)
突然前方から、悲鳴が聞こえた。
小柄な、禿頭の老人を先頭に、ヤルハの神官服の男たちが逃げまどっていた。
「あの人は……」
老人の、少し出っ張った額。テルセウスには覚えがある。ヤルハ教会の大神官だ。彼らは、鬼気迫る表情の者たちに追われていた。その多くは神官服だった。テルセウスらは知らないが、青灰の湖の神官長らだ。
「ふむ、このあたりかな」
カリゲロスが手をかざすと、周囲から死者たちが消え、カリゲロスの姿も闇に溶ける。
「あとはお主ら次第だ。健闘を祈る」
カリゲロスの姿が消えた。




