夢歩き②
ショールは、闇の中、青白く淡く光る霧の中にあった。その向こうに見える彼のシルエットは、見上げるほどに大きく、そして異様なものだった。
その大きな体には、霧の向こうからでも輝いて見えるほどの、吹き上がる白い光の亀裂が走っていた。いや、亀裂と言うより、パズルのピースのようにバラバラになった彼の身体を、その白い光……あるいは炎が、繋ぎ止めているようにも見えた。
彼の頭の左上は欠けているのだろうか、光が溢れて見える。そして、その直下にある左目が、霧を貫くようにはっきりと見えた。
それは、星雲の目だった。漆黒の瞳孔、青の虹彩、赤い縁。それが、射貫くように老人を見据えていた。
霧の向こう、彼の右腕にはツタのようなものが……、絡みついているのか、あるいは生えているのか……、それがうごめいている。
左手は、霧を貫いて輝く太陽の光のようなものを乗せていた。
両の足首からは蛇のようなもの……、いや、ヒレが見える。ウナギのような魚だろうか、それが両足から1匹ずつ、2匹がその身を伸ばして、ショールの肩のあたりで鎌首をもたげていた。
その左の肩には猿の頭のようなものがうっすらと見える、その目の光が、テオを悪意なく見つめているのを感じた。
その体から、色とりどりの花びらが舞い、霧を突き抜けテオを包んだ。茶葉をこすったように爽やかな香りがした。傷ついた心が癒えるような感覚があった。
そして、花びらを追うように大きな蜂たちが飛ぶ。ミツバチのように丸く、胸に毛皮を纏う、テニスのボールくらいの大きさの蜂たちだった。その一匹がテオの顔の前に滞空する。恐怖や嫌悪は感じない。その蜂は、テオを守るように滞空する同胞の陣形に加わった。
「あなたは、一体……」
つぶやくように尋ねるテオの前に、霧の向こうから大きな狼犬が現れ、近づいてきた。
純白の毛皮で、その目の色は黄金のようだった。
「ファティア……?」
その狼犬は涙の残るテオの頬を優しく舐めた。
さらにフォルスが駆け足で戻ってきて、反対側の頬を興奮したように夢中で舐めた。
「や、やめろフォルス、分かったから……」
そこに罵声が響く。
「貴様か、駄犬めが!」
祭壇の陰から飛び出した老人に、ファティアは身構え唸り、フォルスは怒りの声を上げた。
老人の後ろに、フォルスに追い回されていた連中が、憎しみと恐怖の混じった顔で集い始めた。
その老人らに向け、霧の向こうのショールの声が響き渡る。
『お前が暴君クレトスだな』
その声は、いつもの平坦なショールの声ではなかった。そこには確かに感情がある。静かな怒りを込めた声だ。
老人……、クレトスは、竜骨の指をショールの声のするほうへ突き出した。
「貴様、あの時の魔法使いか! 名を名乗れ、姿を現せ! おお、不遜なバルバロイめ!」
『呪術師相手に自ら名を名乗るほど、私が間抜けに見えるか? ああすまん、私が目を潰したのだったな。その宝石造りの目玉では、今の私の姿は見えないか』
その言葉に老人の顔は面白いほど赤くなり、恥辱と怒りに歪んだ。
その時テオは気づく。老人すなわちクレトスの義眼は、ショールの姿を……今自分が見ている霧の向こうの影をとらえていないのだと。
「わしを愚弄するか! おお、ヤルハの下僕、犬畜生のはらからめ! わしを誰だと心得る! わしは千人の不死者にかしずかれる、偉大な王……」
『お前の言う不死者とは、神々やそれに連なるものでなく、昏きものどもだろうが。マギフスの腐臭を漂わせる者に下げる頭もなければ、折るべき膝もない。払うべき一片の礼のあるものか』
その冷厳な声に、クレトスは息が詰まったような顔で口をつぐんだ。
『人々に不和をもたらす魔術は、神話の時代からマギフスどもが好んだものだ。人の目に映らない領域、幽世のものゆえに、英雄たちですら気づくことなく殺し合う。だが見える人間には、容易に見破れる』
彼の体の亀裂に走る白い光が波打ち、腕のツタがゆらめき、肩の獣、足から延びる魚の目がクレトスを睨んで光り、蜂たちも威嚇するように羽音を立てる。
『手を誤ったなクレトス。お前たちの扱う外法の領域は、「我ら」の領域でもあるのだ』
ショールの声が、別の何かが発するもののように聞こえてくる。
『そしてお前が頼りとするものは、この領域では我らの餌だ。我らはマギフスの天敵なのだ』
星雲の左目が、捕食者の視線でクレトスらを睨み据え、彼らはおののいたように後ずさった。
『お前たちはテオに毒の舌を伸ばし、彼の傷をえぐって取り返しのつかない罪を犯させようとした』
「それがどうした!」
クレトスは恐怖の反動のように叫んだが、ショールの声は冷たく響く。
『お前たちは現し世の害虫に過ぎない。害虫は即ち潰す』
彼が左手に乗せる、太陽の光のようなものが輝きを強めた。その中に、黒点のごとく短剣の影が見える。
そして低く、怒りを込めた声で言い渡す。
『失せろ、悪神の毛の先め』
「ひ……」
クレトスは危険を感じたのか、その外衣を翻して顔を覆った。その後ろの者どもは、ただ戸惑う。
ショールの左手の光が、クレトスらを陽光のごとき輝きで包んだ。
その光に焼かれて、悲鳴があがった。
テオもその眩しさに目を閉じた。
悲鳴が収まり目を開けると、そこには祭壇もかがり火もなかった。闇の中に、自分、フォルス、大きくなったファティアの姿があり、背後を見上げれば、霧のすだれの先に、巨人のごときショールの影があった。
「ショール、なのですか……?」
『ああ。もう大丈夫だ』
星雲の左目は優しく細められ、言葉には温かみがあった。
「あなたは、一体……」
また、同じ問いかけをした。
『さあな。今の自分が一体どうなっているのか、正直、私にも分からない』
その言葉に、何か悲しみのような響きが混じって聞こえた。
『だが、そうだな、時折、私と妻はこう呼ばれる。「星の影」と。運命の女神が織りさだめた運命の中で、特に面倒なものを任される人や動物、あるいは事象をそう呼ぶそうだ』
そう語るショールの足元に、見知らぬ人間の影が進み出た。霧に隠れて影しか見えないが、歩き方や体系から、女性のようだった。ひときわ濃い霧を衣のように纏っている。こちらに向けるその顔は、微笑んでいるように感じた。
ショールの声は続ける。
『さあ、目を覚ませ、テオ。君の妹と弟、それにリディアも心配している』
彼を包む霧が、テオにも伸びて、包み始めた。
それからショールは、声を低く語り掛けてきた。
『テオ、やむを得なかったとはいえ、君の心に深く踏み込んですまなかった。私には、君の家族について口を出すことはできないが……。カシアも、君の弟も、その善良さを疑わないでほしい。それにリディア……。彼女のことも、どうか信じてやってくれ』
その言葉とともに、霧が濃くなり、意識が遠のいていく。
『……すまなかった、テオ』
遠のく意識の中で、祖父の声が聞こえた。
「……おじいさま?」
霧の中に、彼の弓が浮かんだ。祖父が彼に譲った、愛用の短弓。
そこから祖父の声が聞こえてくる。
『全ては私のせいだ。私の意固地が家族を歪め、お前をこんなにも苦しめてしまった。悪いのは私だ……。お前は何も悪くない……。よいな、テオ……。お前は何も悪くない。どうか誇りを取り戻してくれ。そして、お前の望むように生きてくれ』
その言葉とともに意識が遠のいていった。
「テオ兄さん!」
「テオ!」
目が覚めると、カシアとイリアス、それにリディアの顔があった。
頬に、乾いた涙の感触がある。
身を起そうとする前に、背中を預ける何かが動いた。
「フォルス……」
木陰の中、身を丸めるフォルスがあり、テオはその腹に寄りかかって寝ていた。
脇腹のあたりでも何かが動いた。
「ファティア……」
テオのそばで、身を丸めて寝ていたらしいファティアが、その顔を上げてテオを見上げた。
それに、自分に向かい合うような形で、フードを被ったショールが座ったまま眠っているのが見えた。
彼は地べたの上で足を組んで座り、組んだ足の上で、上向きにした手のひらを重ねていた。本で見た、東洋の修行者のようだった。
「大丈夫か、テオ」
リディアがテオの頬に両手を当て、その目をのぞき込んできた。
「意識ははっきりしているな? 頭痛はするか? どこか痛むところはないか?」
「大丈夫だ、リディア……。だけど、俺に何が……」
記憶がおぼろげだった。夢のことも忘れていた。だが、
「クレトスに操られそうになっていたんだ」
リディアのその言葉に、それまでの記憶が奔流のように蘇ってきた。
自分の身を案じるリディアと、妹たちの顔を見渡す。それとともに胸が張り裂けそうなほどの情けなさと罪悪感が彼を襲った。
「お、俺は……!」
その目に涙が溢れそうになる。そしてテオは、縋りつくようにリディアに抱き着いた。
「テ、テオ……!?」
さらにテオは、その手を伸ばして、妹と弟も抱き寄せた。
「兄さん……」
「すまない、すまない……」
テオは繰り返し、やがてそこに嗚咽が交じった。
リディアはそんな彼に、子供をなだめるように言い聞かせる。
「テオ、大丈夫だ。お前は何もやってない。何も……」
「分かってる……。違うんだ、そうじゃないんだ……。俺は、俺は……、誰も、何も信じちゃいなかったんだ。お前のことも、カシアも、イリアスも、自分も……。だからあんなものを見たんだ。裏切られたエウメロスの記憶が、絶望が、俺に重なったんだ……」
テオは嗚咽しながら首を振った。言葉足らずの子供のように、彼は続けた。
「クレトスの言う通りだ……。俺は誰かを愛したかった。だけど怖かった。母上みたいな冷たい目を向けられるのが……。信じられなかったんだ、誰も。みんな俺のことを馬鹿にしてるんだろうって、俺を嫌っているんだろうって……。俺は、俺自身のことも信じられないんだ……。自分が駄目な奴だって分かっているのに、そんな自分を認めきれなくて……」
テオは鼻をすすり、うなだれ、そして続けた。
「……みんな、俺を冷たい目で見てた。使い捨てたゴミみたいに俺を見てた。あれはクレトスが見せた幻覚ってだけじゃない。俺が自分自身に見せたものなんだ。俺の弱さが、誰も、自分も信じられないって心が、俺に見せたんだ。俺はきっと、あのままだったらクレトスの誘いに乗ってた。もう少しで俺は、とんでもない間違いを犯すところだったんだ。ショールだけじゃない、殿下も、セレネも、カシアもイリアスも、きっとお前も……。俺が、俺が信じることができないすべてに、矢を向ける所だったんだ、俺の弱さのせいで……」
黙って聞いていたリディアは、嗚咽の止まらないテオの頭を抱き寄せ、耳元でささやいた。
「テオ、大丈夫だ。お前は悪くない……。あんたは悪くないんだよ、テオ」
「違う俺だ……! 俺の弱さだ……! 母上にされたみたいに見捨てられるのが怖くて、何もかも怖くて、信じられなくて、近づけなくて、それなのにみじめな自分を認めきれなくて、何もかもが眩くて妬ましくて……、憎くて……! 俺が、そんな俺の弱さが……!」
「違うよテオ、あんたは何も悪くない……」
「そう、君は何も悪くない」
その声に顔を上げると、ショールがいつもの平坦な顔で見下ろしていた。彼はテオに、その祖父の弓を差し出していた。
「君は何も悪くない。もう、誇りを胸に生きていいはずだ」
テオはリディアたちを抱いていた腕を離すと、弓を受け取った。そして目を閉じて弓を額に当てる。
「おじいさま……」
その頬を、後ろからフォルスが舐めた。
「フォルス……」
「君の枕になりながら、自分も連れて行けとファティアに言って聞かなかった」
「そうそう、なんで私を連れて行かなかったんです?」
恨めし気にリディアがショールに視線を送ると、
「自分の顔をした悪党がテオを嵌めようとしている。君は冷静でいられるかな?」
「素ッ首ねじ切るでしょうね」
その言葉が冗談かと思ったのか、妹たちは笑みを漏らしたが、テオは笑えなかった。
「ここは今、どこに……?」
テオは周囲を見渡した。
そこは街道から少し離れた、一本の広葉樹がそびえる広場だった。農家の休憩所なのだろうか。タロッソスからそう離れていないようで、巨人の丘が遠くに見える。
空は春の曇天だったが、明るい。日は中天に達しているだろうか。
「学院の生徒たちとルディオンに向かっていたことは覚えているか? その途中だ」
リディアが答えると、ショールが続き、
「殿下や学生たちには先行してもらっている。君の具合が悪いということにしてね。そうしたら、君の妹君と弟君が、残ると言って聞かなくてね」
「お前たち……」
テオはカシアを見、次いでイリアスを見た。
なんで自分を置いて先に行かなかった、などという言葉は胸の中で消した。ただ無言でふたりを抱きしめた。
「に、兄さま……」
ふたりが痛がっちゃうよと、フォルスが困ったように喉を鳴らし、ファティアがテオのブーツを引っ搔いた。
その場の空気を切り裂くような悲鳴が聞こえた。テオは妹たちをかばうように前に出て、悲鳴の聞こえた先を睨む。
「先行した学院の生徒たちの方角ですよね!? まさか……!」
「いや、心配いらない」
ショールが言った。彼もリディアも、悲鳴の上がる方向を見ていたが、その顔はみな冷静、というよりも、冷ややかだった。




