悪夢の手
テオは夢を見ていた。
子供のころの夢だった。10歳の頃だろうか。祖父に並んで馬を走らせ、藁人形の的に矢を当てた。
(いいぞテオ! その齢でお前に勝てる者はおるまい!)
祖父は褒めたたえてくれた。彼は武技の師であり、その訓練は血のにじむようなものではあったが、成しえたことはいつも手放しで称賛してくれた。
だが、
(父上、母上、見てくれましたか!?)
笑顔とともに振り向いた時、彼が一番褒めてほしかった両親の眼は、幼い妹と弟に向けられていた。
両親も、妹も弟も、彼に目も向けず、家の中へと入っていった。
(父上、母上!)
テオは馬を降り、必死に呼びかけながら家の扉を開けた。
蹴り飛ばされた。相手はヒマティオンを着た老人だった。蹴られた腹を抑える自分の手は、子供のものでなく、逞しい戦士のものだった。
(敵に情けをかけたそうだな、軟弱者めが!)
老人は杖を振り回し打擲してきた。殴られた頭を押さえた手には血がついていた。
(残虐さこそが敵を恐れさせ、我が王の名を四方に轟かせるものであるのに! なぜ恐怖に満ちた眼玉をくりぬき、汚れたはらわたを地にぶちまけなかった!)
わめく口とは違い、その氷のように青い目は、狂気じみた冷たさを持っていた。
その目が、母の冷たい瞳と重なる。
(違う、俺の母は……!)
叫びかけるテオだが、老人の杖に横面を殴られた。
(腑抜けのエウメロス! お前の兄はきさまのような腰抜けではなかった! 残忍で狡猾で恐れ知らずで……。ヨレンの狂犬の名にふさわしかった!)
その言葉に、すさまじい怒りが沸き起こった。そして、自分ではない声が自分の口から発せられた。
(私は今日も陣形で最も危険な位置に立ち、20を超える勇者と戦い、その全てを打ち倒した!! 神々に対し、戦場にあって恥ずべき行いは一切していない! それをただ一人の戦士に慈悲をかけただけで、このような仕打ちをなさるのか!)
老人がなお振り下ろす杖を掴み、奪い、立ち上がる。腰が砕けたように尻をつき、おびえた犬のようになった老人の前で、その杖を折った。
(父よ! あなたが私にかような恥辱を与えるのは、私のいくさばたらきに御不満があったからではなかろう! 私の顔が憎いのだろう! 母に似たこの顔が! 寝取られた妻に似たこの顔が!)
おびえていた老人の顔が、憎しみで醜く歪んだ。
その顔は、テオの父のものに変わった。その父の横には、先ほどの老人のようにおびえた顔の母が寄り添っていた。
テオの手にあるのは、折られた杖でなく、父が折ろうとした祖父の弓だった。
テオは叫んだ。
(俺は確かに決闘をして学園を追い出された! だけどそれはセレネのためであり、カシアのため、イリアスのためだった! 俺は何も恥ずべきことをしていない! なのに父上も母上も、なんで俺の話を聞いてくれないんだ!)
血を吐くように叫んだ。
(俺の顔が憎いんだろう! おじいさまに似ているこの顔が!)
祖父の悲しげな声が聞こえる。
(おお、可哀そうに、我が孫、テオよ……)
テオの両肩に背後から手が置かれ、すすり泣くようなささやき声が耳に入る。
(誰からも愛されず、苦しんでいたのだね。だが心配することはない。あの愚かな両親の分も、このわしがお前を愛そう。お前の心を満たしてあげよう)
テオは目を覚ました。部屋は暗く、若い神官たちの寝息が聞こえる。
夢を見ていたはずだが、それを思い出すことができない。
(俺は……。泣いていたのか?)
頬に涙の感触がある。胸にも、言い知れない暗い感情が渦を巻いているのを感じる。
どうしても、それ以上眠る気にもなれず、暗澹と沈んだ心を抱えたまま、天井を見つめていた。
何時間が経ったろうか。窓の外から払暁の光が漏れたころ、まだ寝ている神官たちを起こさぬよう、テオは床を払った。
いつも通り、フォルスの食事の世話をする。
彼女はどこか心配そうにテオに鼻先を寄せてきた。
「心配するな。寝不足なだけだ」
テオは低く答えた。確かに眠いが、沈み込んだ心ゆえにあくびも出そうにない。
鉄人との戦いから一夜が明けた。テオはショールらとともにヤルハ神殿に宿泊した。
王子たちはタロッソスの市庁舎に泊まることになったが、市庁舎では全ての学生や学院の教職員、王子の護衛らを収容しきれず、いくつかある宿泊施設に分散して泊っている。
さらには応援に駆け付けた聖戦士や軍の部隊も町の周囲に野営し、タロッソスはここ百年以上なかったほど人で溢れ、かつ、200年前のアブロヌ王の侵攻以来と思えるほど、緊張で張り詰めていた。
テオは、昨日の驚くべき出来事を思い起こし、
(助かったよ、テオ)
(君の腕が必要だった)
ショールが自分にかけてくれた言葉を思い出す。暗雲に覆われた心に光が差した気がした。
(だけど……)
それで、何か変わったろうか。労いの言葉もそこまでで、神殿の調査の後、皆あわただしく動き、自分に目もくれない。いや、使用人としては自分を見ているか。
夕食も粗末なもので済ませ、大部屋で固いベッドに眠り、今も誰より早く起きてフォルスの世話をしている。
命がけで助けた妹も、ただ見ていただけの弟も、高貴な身分の学生としてもてなされ、大勢に守られながら、今ごろ市庁舎で惰眠をむさぼっているだろう。兄である自分のことなど忘れて。
フォルスが吠えた。
テオははっと顔を上げた。
「……俺は、何を考えていた?」
つぶやいて顔を上げると、心配そうに自分を見下ろすフォルスの顔があった。
テオは両頬を叩き、立ち上がる。
「おはよう、テオ」
振り返ると、神官長がいた。その腕にはファティアが抱かれている。
ファティアは神官長の腕からすり抜けて地上に降りると、尻尾を振りながらテオのそばに走り寄った。
「君が起きたのが分かったんだろうね。私の部屋の扉をかりかり引っ搔いて、外に出ようとしたんだよ」
神犬ファティアの生まれ変わり。そう扱われることになったファティアは、神官長の部屋で一晩過ごした。多分、テオより上等な毛布の中で。
「こうしてみると、普通の犬なんですけどね」
テオは腰を下ろし、ファティアの頭を撫でる。ファティアは自らテオの手に頭をこすりつけていた。その様は確かに普通の子犬だ。
そう、普通の子犬にしか見えない。この犬は本当に神犬ファティアの生まれ変わりなのだろうか。確かにそれらしい場面は何度かあった。だが、偶然で片付けられないか? なぜみな、そんなあっさり、神犬の生まれ変わりなどと信じられる?
(俺をかついで、馬鹿にしているんじゃないか……?)
その時またも、フォルスの鳴き声でテオははっと顔を上げた。
我に返ってファティアを見下ろすと、彼女の尻尾は止まり、じっとテオを見上げていた。
「テオ、どうしたんだね?」
神官長が心配げに声をかけてくれた。
「……いえ、何も」
そう言って立ち上がったテオの視界に、ショールの姿が写った。
彼は建物の入り口で腕を組み、井戸の底のような目で、テオの様子をじっと見ていた。
テオは胸がえぐられるような感情を覚えた。彼の感情なき目が、ひどく冷たいものに見えたからだ。
(あなたはなぜ、こんなこともできないの?)
(魔法は心が影響するものなの。あなた、やる気がないのね)
(おじいさまの言うことばかり聞いて……)
かつて、母が自分に向けた失望の眼が、それに重なる。
「おはよう、テオ」
ショールが口を開いた時、母の影は消えた。そうだ、ショール・クランと言う人は元々、誰に対してもこんな風な人だった。
「疲れた顔をしているな」
テオの顔を覗き込むように見つめながらショールは声をかけてきた。
「ええ、まあ……」
「夢を見たか?」
この質問は三日続けてだった。
テオはなぜか素直に答える気にはなれず、
「いえ……」
目を逸らしながら、つぶやくように言った。
ショールは何も言わず、テオの顔を見ていたが、
「おはようございます、神官長、従士どの」
リディアがやってきた。彼女はテオやフォルス、ファティアには、挨拶として凛とした笑顔だけ向けた。
それから彼女はショールに向き合い、
「従士どの、これからのことですが……」
会話に入ったショールとリディアに、テオは、何か強烈な疎外感を感じた。
そして、暗い感情が湧き上がるのを感じた。
この感情には覚えがある。かつて、妹や弟に対しても抱いていたものだ。
(俺は、嫉妬している……?)
何に対してだろう。リディアを奪われたとでも思っているのか。自分はただの使用人なのに。
テオの脳裏に閃く光景があった。
9歳の時だ。忘れもしない。仲のいい幼馴染であり、許嫁でもあったリディアがその両親とともに家に来た。挨拶のためだ。
彼女は10歳にして聖戦士の素質を認められ、戦士団に入ることになった。それは、国に召し上げられ、テオとの婚約も解消されることを意味していた。
帰り際、リディアの背中を見送ったときの喪失感、寂しさは今でも覚えている。
彼女は一度だけ振り返った。
(その時、こいつの眼は、覚悟を決めていた。だから俺はそれ以上何も言わずに……)
テオは思い出そうとする。その時のリディアの眼を。
脳裏に浮かんだ彼女の眼は、氷のように冷たかった。
「……!」
テオははっと目を見開いた。
「……どうした、テオ?」
リディアが怪訝な顔で聞いてきた。
「……なんでもありません」
そう答えたテオは、直後に、頭を何かが叩くような感覚を覚えた。
リディアは首を傾げ、テオに近づき耳元でささやく。
「ちょっとあんた、いま念話送ったけど、ひょっとして聞こえなかった?」
「……すみません」
視線を泳がせながら返した言葉は、卑屈にしぼんだ。
リディアは顔を離し、心配そうにテオの顔を見つめたが、テオの眼には、それが、別の感情を表す顔に見えた。
失望。リディアの表情に、祖父の顔が重なる。
(そうだ、あの時おじいさまも、こんな顔をしていた)
リディアに遅れて1年後、聖戦士の適性試験を受け、不適格とされたあの日。
もし、あそこで聖戦士団に受け入れられることができたのなら……。
「テオ」
ショールの言葉に、またテオは現実に引き戻される。
「まだ朝は早い。部屋で少し休ませてもらえ」
「いや、俺は……」
「従士どののお言葉に甘えておけ」
リディアに言われた時、テオは突き放されたような心持ちになった。
「……分かりました」
テオはうなだれるように、暗い勝手口へと入っていった。
それを見送りながら、リディアはつぶやく。
「テオ、一体どうしたのか……」
「精神汚染だ」
ショールは低く短く言った。リディアは見開いた目をショールに向けた。
ショールは勝手口の闇を見つめたまま続ける。
「誰かが彼の心に干渉し、支配しようとしている」
神官長は厳しい顔で、
「なぜ、テオを……」
「青灰の湖でクレトスが目覚めた晩、テオは遠くにいながら何かを感じ取った。恐らく蘇ったエウメロスの精神に感応した。単に子孫だからというだけでなく、元々の彼の精神と、心に抱える闇に、エウメロスと近いものがあったのだろう」
そのエウメロスを通じて、テオの心に干渉してきた。
「その目的はおそらく、私の命だ」
「なんと……」
淡々としたショールの言葉に、神官長は目を見開いた。
「まさか、クレトスが……」
リディアの柳眉が逆立った。
「だが、それだけではない気がする。直接奴がテオの精神に干渉するなら、私はもっとはっきりと気づけたはずだ」
「どういうことです?」
神官長が尋ねると、
「言葉にするのは難しいが……。私はクレトスの魂や、それが宿るマギフスの骨と対峙し、命を懸けた接触をした。危険な相手の、存在の深い所に触れたと言いうべきか……。そんな相手が害意や悪意を持って近づいてくれば、私はすぐに察知できる」
「あなたの精神感応が起こすことですか」
リディアは唇を曲げながら言った。よく分からないが、無理に納得したようだ。
「そう思ってくれていい……。それができないということは、クレトスでなく、その魔術を中継するもの……。おそらくは、奴の手のものが近くにいる」
それからショールはリディアに顔を向け、
「とにかく、テオに関しては私が何とかする」
その言葉だけで、リディアの愁眉は開いた。
ショールは屋内に入ろうとして、足を止めた。
「だがリディア、後で聞かせてほしい。テオについて、君が知っていることをだ」




