テオの物語①
「あの湖ですか……」
神殿に戻ったショールは、門の近くにいた若い神官をつかまえ、丘の裏手の湖について尋ねた。
神官は面白そうにうなずいて、
「あの湖は『巨人の禊場』と呼ばれております」
「禊というには、随分汚れた水ですよね」
ショールの後で、テオが苦笑とともに言った。
「ええ、川などとの接続がほとんどなく、水の入れ替わりが少ないためか、澱んで腐っているみたいなんですよね。水底は泥が深く堆積しているそうです。地質学者などによる調査も入りましたが……」
「あまり芳しくなかったと」
ショールが言うと、神官はうなずいた。
「ただでさえ透明度が低くて視界が悪い上に、人体に悪影響を及ぼすような水なのだそうです。実際、あの湖に生き物はほとんどいないと言われています」
ショールは考え込むように沈黙し、
「個人であそこを調べるのは問題ないだろうか」
「特に禁足地ではないので問題ないかと思うのですが……」
「何か?」
「かなり臭いですよ」
神官は苦笑いしつつ言った。
「臭いくらいはやむを得ないだろうな」
「しかし、調べると言ってもどうやって?」
「水を操るのは得意だ。潜る方法に当てもある」
テオはショールの足に目をやった。確かに水桶を操ったあの魔法なら、湖に潜るにも問題ないだろう。
「しかしあなたは本当に面白いところに目をつけますね。実はあの湖にはひとつ面白い話がありまして……」
巨人の丘が、自然にできた丘ではなく、人工的に作られた丘という説があるそうだ。
「その説によると、丘を作る土を掘り返した跡に水が溜まり、あの湖ができたとか」
ショールは考え込む一方、テオは懐疑的だった。
「確かに平野の真ん中に唐突に出てきたような丘と湖ですが……」
「そうですね、まるで出来物のようにも見えますからね」
ショールは考え込む目を上げ、
「とにかく、あの湖は明日にでも調べてみよう。それと……。どこか、火を起こしてもいい所はないだろうか」
案内されたのは、台所だった。すでに奉仕者の女性たちが夕飯の仕込みをしているが、そこの竈はまだ火が入っていない。
ショールは竈の前で屈むと、ひもでくくられたふたつの黒い石を取り出した。
「アマーリロでフ・クェーンからもらった。彼の失われた民、イァン族の火打石だ。これで起こした火を、持ち主の意志で操ることができる」
「フ・クェーンですって!?
声をあげる若い神官をよそに、ショールは枯れ枝を竈に積み、火打石で火を起こした。
つつましく燃え広がる炎の上にショールは腕を伸ばすと、突然炎が伸びて、ショールの腕の周りをくるりと周り、消えた。
竈の火も幻のように消えるのを見届けて、ショールは振り返る。
「これを君に使ってほしい」
そう言って、テオに火打石を差し出した。
「わかりました……」
テオはそう言いつつ、拒絶するかのように眉根を険しくしていたが、その鼻先を一匹の蜂が通りすがった。その飛行の跡に、緑色の粉が舞う。
「……?」
テオの顔の曇りが消えた。それからテオはうろん気な顔をショールに向け、
「今、俺に何かしました……?」
「少しリラックスする匂いをかがせただけだ」
ショールの外套の中のベストの一部が、青や緑に変色していた。よく見ると、非常に小さな花が咲き、花びらか花粉のような、細かなものが舞っている。
テオは釈然としない顔をしていたが、背後で目を輝かせる若い神官の気配も察し、仕方ないと火打石を受け取った。
竈の前に腰を下げたテオの目の前で、緑の粉がちらちらと光って見える。ミントをすりつぶしたような清涼感のある匂いが広がっている。
不思議と心が落ち着く。
しかしそれでもテオは、その顔に諦念のようなものを漂わせていた。
「俺、こういうのでうまくいったことが……」
「とにかく試してみるといい。火をつける時、自分の中の何かを火花に混ぜるイメージで……。それだと漠然としているか。そうだな、火を打つ時、爪の一部を火花に混ぜるイメージがいいか」
「爪、ですか……」
「あくまでイメージだ」
テオはその手にある火打石に視線を戻した。火打石を打ち鳴らし、火口に用いる枯れ枝に火花を散らす。何度かの後火が上がった。
ショールは火を見て、
「できているな。その火の中には、君の意思が宿っている」
「……そうなのですか?」
「その火に混じる君の一部を使い、火を操るイメージだ。とりあえず、火を強めてみてくれ」
テオは竈の火を睨む。
すると突然、はじけたように炎が上がり、咄嗟に身を引いたテオの鼻先にまで迫った。
「うおっ!?」
テオが思わず尻もちをつくと、火は竈の中のそれごと嘘のように消えた。
「できたな」
後ろでショールが平坦に言うと、テオは不審を込めた目で振り向いた。
「……そうなのですか?」
「君は魔法の細かな制御や長時間の維持は不得手のようだが、瞬時に大きな力を発揮することに長けているように思う。瞬発力と言うべきかな。まるで稲妻のような」
淡々とそう評されて、テオの顔から毒気が抜けた。
「君の類まれな集中力の高さがそういう特性を生み出したのだろう。君がその弓であれだけの力を引き出せたのも、その特性からだろうな。弓という武器と、とても相性がいい」
「えっ……」
ショールはテオの顔を見て、
「ひょっとして、あの威力がただ射るだけで発揮されるものと思っていたのか? 弓を射る時、君は確かに弓の魔力を操っていたぞ。私やリディアが射ってもああはならない」
「……」
「無意識だったようだな」
ショールはその表情を変えないが、腰に両手を当てる仕草は、どこか呆れているようにも見えた。
若い神官がうずうずとした顔で話に入ってきた。
「つまりあなたは、この火打石の扱い方を見て、魔法に関する個性や適性を見たわけですね」
「そういうことになる。魔法操作の習熟を見ることもできると思う」
そこまで言って、ショールはふと気づいたように背後を振り向いた。
「面白そうなことをやっておいでですな」
神官長が温和な笑みを浮かべていた。
「従士どの、少しよろしいですかな。ああ、テオはそのままでよい」
「その火打石は魔法操作の練習にもなると思う。好きに使ってみてくれ」
そう言い残し、ショールは神官長に促されるまま、テオや神官の声を背に客間へと向かう。
歩きながら、神官長は、
「わたくしごとで恐縮ですが、あなたからテオの様子について聞きたいと思いましてな」
微笑みに、少しほろ苦いものが混じっていた。
「彼の父は私の甥に当たり、また、彼の母方の祖父は私の旧友でもありました。お聞き及びかも知れませんが、彼には少々複雑な事情がありましてな。気にかけておったのです」
言いながら、神官長は客間の扉を押し開けた。
「イスロの学生が来る話を聞いたときのテオの反応を見て、少々心配しておりましたが、どうやら杞憂だったようですな」
「いや……、彼の心につけられた傷は深い。強い劣等感が張り付いている」
ショールの言葉に神官長は微笑んだまま何も言わず、客間に入り、ショールに席を勧めた。
「もとはと言えば、テオの祖父、ディノスから始まったのですよ」
神官長はテーブルの上で手を組んだ。
「ディノスは私の友人でした。彼は名の知られた聖戦士でしてな。かの十二国戦争において功績があり、自らの家を興したほどの男でした」
「この国は、十二国戦争には関わらなかったと記憶しておりますが」
すると神官長は低く短く笑った。
「従士どのは、十二国戦争の始まりが、どこにあるとお考えですかな?」
問われて、ショールは考え込んだ。50年以上前に起き、十数年にわたり続いた、世界大戦とも呼ばれるその大いくさは、様々な国々のいさかいが同時に起きて、いつしか燎原の火のごとく広がったものだが……。
「黄金を人工的に作る技術の流布」
「さよう」
一人の錬金術師が、海水で金を作る技術を発見したことが、全ての始まりだった。
それに気づいた者たちは、その技術を奪おうとし、彼は破滅に追いやられた。
しかしその錬金術師は、絶望の中、恐ろしい復讐を用意していた。
その技術の詳細を可能な限り世間にばらまくように、手配したのだ。
やがて来る金の価値の崩壊。その恐怖は巨大な津波のように世界に広がり、世界大戦への道筋を作った。
「その、金を生成する技術にも、かのアブロヌ王の遺産が絡んでいたと言われておりますが、それを探る聖禽隊と、やつは任務をともにしたのです」
「それは、私が聞いてもよいお話なのですか?」
ショールが言うと、神官長は笑って手をひらひら振った。
「公にされたお話です。大したことではありません」
それから少し遠くを見るような目をし、
「ディノスはエウミアディス宗家の三男でしたが、大変な苦労人でした。棟梁であった彼の父と長兄が罪を犯して……、先のお話の、金の生成に手を出そうとしましてな。ああ、これも公になっているお話です……。まあそれで失脚したため、氏族の汚名をそそぐために、棟梁を継いだ次兄とともに奔走したのです」
それから笑みを収めると、
「その甲斐あって、彼らは士族の名誉を挽回することはできたのですが、ディノスは……。労苦を重ね、武功によって這い上がり、家名を回復し自身も家を興す……。そんな人生ゆえにか、奴はいささか武事に偏った価値観の持ち主になってしまいました。自分の興した家も武門の家として名を上げるのが当然であると、固く信じておったのです」
ところが彼の一人娘は魔法学の道に進んだという。それはいいが、彼女は父の選んだ婚約者でなく、別の人物との結婚を強引に進め、婿に迎えた。
「それが私の甥です。ふたりは幼なじみであり、イスロ学院からテルセニア大学まで、ともに過ごしていました」
テオの父は、武事よりも学問に傾倒した人物で、舅となるディノスの目には文弱の優男に見えたという。一人娘の望んだ結婚に、その父は断固として反対したそうだ。
「奴は……、ディノスは私の所にも乗り込んできましたよ。お前の甥を何とかしろとね。私は最初、彼をなだめるつもりで話をしていたのですがね、あまりに意固地になったディノスを相手に、最後は売り言葉に買い言葉になってしまい……。そのまま喧嘩別れになってしまいました」
神官長は思い出し、苦笑を漏らした。
「ディノスとはそれからしばらく絶交となりました。その後半年ほどでテオの父母が結婚したのですが……。それより先に、ディノスが聖戦士を引退したという話を耳にすることになりました。どうも、パラスが使えなくなったそうなのです」




