船を沈めるもの
※ ※ ※
雪のように白いその子犬は、乳離れとともに母や兄弟と別れ、旅に出た。
達観した顔をしていた。風雨にさらされても、食べ物もない延々と続く平原でも、ただ黙々と、ひたひたと歩き続けた。
時に野犬やカラスに襲われても、いつの間にかその視界から消え、餌を恵んだ親子が家に迎えようとしても、感謝の一吠えを残し、すらりとその手を逃れ去った。
子犬は、自分の使命を知っていた。
そして10日をかけて、その地にたどり着いた。
タロッソス。巨人の丘がある町に。
丘のふもとにあるベンチの下に潜り込むと、子犬は身を丸めた。
そして、ほどなく訪れるであろう出会いを、待つことにした。
※ ※ ※
タラよ、名の忘れられた時の神の長女、運命の紡ぎ手よ。
おお、タラよ、星々の主、その髪で夜を織り上げしものよ。
そなたは天地の間のあらゆるものの運命を、天上の神々の行く末すらも、その手のままに定めた。
我らはそなたの加護を願った。最も肥えた牛をそなたのために捧げ、年のはじめに取れたすべての作物はそなたのものとし、思いつく限り贅を尽くした御饌物を供えた。そなたの神殿に用いる石は輝くほどに磨き抜き、祭壇には最高の彩ぎぬを捧げた。
おおタラよ、我らは乞い願った。その御手に紡がれる我らの運命が、よりよきものであらんことを!
すべて間違いだった。
お前はこの世のはじまりの時、その時すでに全ての運命をつむぎ終え、この苦界に這いずる我らを置いて去っていった。
哀れな善人たちがもがき苦しみ、その頭を踏みつける悪党どもがマギフスの欲望を満たして高らかに笑う運命も、お前が織り定めたのだ。
我らが故郷は焼かれ、王の宮殿は略奪され、奥つ城は暴かれた。お前のための神殿も凌辱された。男も女も血に沈み、嬰児すらも城壁から投げ捨てられた。
そして今も、私は恥辱と不名誉と苦痛の中、裏切り者どもの嘲弄にさらされている。
おおタラよ! お前は去っていった神に過ぎなかった。私のこの呪われた運命を定めておきながら、わが怨嗟も届かぬ夜空のかなたに去っていったのだ。
ああだが、この恨みの言葉がお前に届くことがなくても、たとえ全てがお前の手のひらの上であろうとも、この身の業火が我ひとりを燃やすだけのものにしておけようか!
おお、せめて裏切り者どもを冥府の道連れに! 憎悪が地獄への迷い道に誘うものならば、それもかまわぬ。おお、この魂を悪神に売ってもいい……!
——ショールは目を覚ました。
目覚めると、心は静かな水面のようになる。
夢の中、かつての自分に戻り、感情が揺さぶられることがあっても、目覚めれば、心の波はたちまち幻と消える。
その代わり、静まりかえった心が世界に溶け込む感覚がある。そして、人間の五感で説明しえない、なにか、「流れ」や、「信号」のようなものを感じるようになる。自分に向けられる様々な感情、近しいものに向けられる感情、予感としか表現しえないものなど。
ショールは凪いだ心の中で、今見た夢について考える。
泥のような闇にうめく怨嗟の声。
その夢が普通のものでなかったことを、ショールは理解している。
そして、自分自身の夢ですらないことも。
(おそらくは……)
自分に近しいものが、強力な怨嗟に感応した。それは、その強力さゆえに、受信したものの心にとどまらず、波紋となって、ショールの夢に届いた。
リディアやその一族ではない。彼女たちの感情を探ると、波紋を感知してもいないようだ。ショールが感じる彼女たちの心に動揺は見られない。
夢に出た、怨嗟で塗られた声の奥にも、本来の魂の色というべきものがある。それと似た色の持ち主に、ショールは覚えがあった。
彼は昨晩も、リディアにすら感知できない何かを感じた。おそらく、その魂の色の近さゆえに。
ショールは羽毛の布団を払い、寝台から身を起こした。
身支度を整え、朝の散歩を装い厩舎に向かうと、その姿があった。
馬たちの並ぶ一番手前に走竜のフォルスがおり、テオは眠そうな顔で、彼女の面前に置かれた桶に飼料を流し入れていた。
「豆か」
ショールが声をかけると、テオははっと顔を上げ、
「は、はい。ええ、豆です。あとはトウモロコシとか……」
テオは少し間抜けに返した。フォルスはショールに向け、挨拶のように短く鳴いてから、桶に顔を入れて飼料をむさぼりはじめた。
「本当はもっと肉を食べさせてやりたいんですけどね……」
暗い声でテオがつぶやくと、顔を上げたフォルスが明るく鳴いて、また桶に顔を入れた。
「気にするな、だそうだ」
「……」
テオはフォルスの首をなでた。
「彼女の世話は、君のふところで賄っているのか?」
ショールが尋ねると、
「ええ。リディア卿からも車の手間賃としていくらかはいただいています。それでもなかなか厳しいですけどね」
馬でも個人で所有するには膨大な費用がかかるとされる。体も大きく、本来肉食の走竜を世話するとなると、どれほどになるだろうか。
「形だけでもルディース家の所有にしておけば、費用はお館から出すとも言われていますが……、たとえ形だけだとしても、こいつを誰かのものにしたくはないんです。俺の大切な家族ですから」
整った顔にほろ苦い笑みを浮かべた。
「だけど、こいつのためを思うと、ルディース家の人たちに世話をしてもらった方がいいかもしれないと思ってもいます。奥様も旦那様も、きっとこいつを大事にしてくれるだろうし、もっといいものも食べさせてもらえて……」
突然フォルスが顔を上げて、食べかすを飛ばしながら一声吠えた。テオは驚いて中腰を崩しそうになった。
「情けないことを言うな、だそうだ」
「……」
フォルスはふんと鼻を鳴らし、再び桶に顔を突っ込んだ。
テオは小さくため息をついて、服についた食べかすをはたき落としながら立ち上がった。
ショールはそんなテオの顔を見て、
「少し、疲れた顔をしているな」
「ええ、まあ……」
「夢でも見たか?」
テオははっとショールに顔を向けた。
「多分、私も同じ夢を見た。誰かが運命の女神を呪っていた」
テオは少しの沈黙ののち、
「その誰かっていうのは、誰でした?」
「闇の中だった。声しか聞こえなかったが……」
「俺の夢では、俺でした」
「何……?」
視線を下げるテオの顔に、暗く陰が差していた。
「目の前に、別の俺がいたんです。俺が、運命を呪っていたんです」
ショールの脳裏に、男の顔が走った。
それはテオとよく似た男だが、テオではない。血を吐くような怨嗟の叫びを上げていた。
テオと自分が見た夢のことを考える。普通の夢ではない。昨晩感じた何かの気配とも無関係ではないことを、ショールは感じていた。
テオは精神感応が未熟にも関わらず、その気配を察知した。おそらく何らかの強いつながりがある。心が共鳴するほどの。
今朝見たあの夢も、自分のものではなく、テオのものだったのだろう。そう、ショールは考える。
思案にふける中、突然、心に流れる声があった。
(道しるべを、見逃さないで)
彼が求めてやまない女性の声だ。
(アマル……)
ショールは、組んでいる腕の中で、小指に指輪をはめた左手を、軽く握った。妻のささやき声に、緊張を感じた。
「従士さま?」
沈黙するショールの様子に、テオは怪訝な顔をした。
「……なんでもない」
その時、
「従士ショール! 従士ショールはいらっしゃいませんか!」
初老の衛士の声が響いた。
「ここに」
不思議に響く声でショールが答えると、彼は小走りで走り寄り、
「市長と奥様がお呼びです。通信室までお越し願います。王弟レオンティウス殿下から通信だそうです」
『朝早くからすまんな。早速だが「水晶の奥方」からお前に話がある』
続いて通信機から、高く澄んだ女性の声が響き渡った。
『久しぶりですね、「星の影」よ』
その場にいたものが、市長始め一斉に起立し頭を下げた。
「奥方様……」
『若き友よ、堅苦しい挨拶は無用です。その場にいる者も頭を上げなさい』
その場にいる者たちが姿勢を戻す。
『早速ですがショール、予定を変更し、タロッソスに向かってほしいのです』
ショールの胸に、強いざわめきが走る。そこに、何か大きな危険があることを、彼は直感した。
『私から呼び出しておきながら申し訳ありません。この通信で仔細は言えませんが、昨晩、少々厄介な問題が発生してしまいました』
「……承知しました。では、私はその地で何をすれば?」
『その地をあなたに調べてほしい。あなたの目でこそ見えるものがあるはずなのです』
「……」
『護衛には引き続きリディア卿についてもらいます』
「……ひとつ、確認してよろしいだろうか」
『なんです?』
「私とリディア卿、そしてその従者等の同行者に、有事における武器そして魔法道具の使用は認められるだろうか」
その場にいたリディア、その父母らがそろってその言葉の意味を咀嚼して後、すぐに緊張とともに顔を引き締める。
『……何かある、と、考えているようですね』
「ほとんど確信している」
一拍の沈黙ののち、
『レオンティウスに代わります』
再び、太い男の声が響く。
『話は聞いた。リディア卿は無論、問題ない。聖戦士の装備は飾りではない。有事には民間人を守る義務もある。お前も魔法の使用そのものについては認可されているので問題はないが、それを、たとえば人間に向けるとなると……。いや、この私が聖戦士団総長として保証人となり責任を持つ。お前の判断のもとに、好きに使え』
「感謝します」
『それと同行者だが、これも保証人がいる。リディア卿の従者なら、リディア卿が保証すれば問題ない』
ショールはリディアに目をやった。彼女はうなずいた。
テオは朝食を終えたところで呼び出された。
客間として使用されている一室に入ると、リディアとその父母、そして外套に身をくるみ、杖を手にするショールがいた。
「テオ、目的地が変わったわ。ルデリアでなく、タロッソスにね」
「タロッソスに?」
別に構わないがと言いかけたテオに、リディアはつかつかと歩み寄り、
「テオ、これ」
一振りの剣を差し出した。
リディアの父が穏やかに口を開く。
「私のサーベルだ。付呪もかかっているが、切れ味に手を入れた程度で特別なものではない。扱うのに問題はないだろう」
「なぜ……」
戸惑うテオに、リディアは厳しい顔を向け、
「必要になるかもしれないから渡すのよ。どうする? 嫌ならあんたはここに置いてくけど」
テオはその言葉にむっとしかけたが、その場にいる者たちが自分に向けるまなざしに気付くと、姿勢を正した。
「危険があるということだな」
その顔は覚悟を決めた戦士のそれになった。そして両手で剣を受け取る。
リディアの父はさらに、
「有事の際、民兵に支給する防具を用意してある。これも付呪がかかっている。正規の軍装は妻の権限でもすぐには用意できなくてな。私の権限で貸与できる中で最上のものを用意した」
「あとはこれだな」
リディアの母は、弦のない一本の短弓を差し出す。
「君の宝物だろう?」
差し出されたテオの顔が曇り、目が泳ぐ。
「いまどき弓など……」
「いや、この弓はかなりの品だ」
ショールが横から口を出す。リディアの母はうなずいて、
「合成弓の逸品です。アッカリアの騎馬民がその技術の粋を集めて作ったものです」
一見すると木製だが、複数の素材を組み合わせて作られたようだ。艶のある深い褐色は、相当な年代物であることをうかがわせた。
「工芸的な価値は私にも分からないが、職人と、受け継いできた遣い手たちの意志は感じる。かなり強力な付呪もかかっていたはずだ」
「しかしその魔力はとうに切れています。少なくとも200年前に造られたものですので、古物の専門家でないとエーテルの充填は……」
テオが顔を曇らせたまま言うが、
「何とかなると思う」
ショールはそう言い、リディアの父母に顔を向け、
「申し訳ないが、予備のエーテルバッテリーがあれば譲っていただけないだろうか」
うなずいたリディアの父が呼び鈴を鳴らし、秘書が入室した。
その後用意されたバッテリーを受け取ったショールは、それと短弓をテーブルに置いた。腰の短刀とは別の小刀を鞄から取り出すと、それを使って鉛のカバーのネジを外した。
端子のついた四角いカバーの中から、ガラス容器を取り出す。
「水銀を用いたものですか。かなり上等なものと見ましたが、使い切ってよろしいか?」
「どうぞ」
リディアの父の了承を得て、ショールは腰の鏡の鎖に手をかけ、その鎖でぶら下げた。
リディアの顔色が変わったが、
「必要であると判断するとき、これを使う。それは私一人の意思ではない」
視線も向けずにそう言って、白く濁る鏡面を容器に向けた。
鏡の濁りが晴れて、容器を写す。
直後に、水銀の満ちていた容器が白く輝いて、クラゲのように半透明な、花びらか、あるいは火花のようなものを宙に散らした。
それはすぐに消え去って、次にショールの持つ鏡から、同じ光があふれた。
その光を前に狼狽したテオが、
「ショ、ショール、これは……」
「エーテルコンバーターのようなものだ」
答えるうちに、その鏡の光もまた、すぐに消え去った。
ショールはベルトに鏡を戻すと、テーブルの弓を取り、テオに差し出す。
「やはり素晴らしい弓だ」
おずおずと手を伸ばしたテオだったが、弓を握った瞬間、それが驚くほど手になじむのを感じた。弓が体の一部になった感覚すらある。
そして、弓を握る手から、全身へと力が溢れていくのを感じる。
「これは……」
「出発前に一度試した方がいい。多分、君が思う以上に強力なものになっている」
呆然と口を半開きにしていたテオだったが、すぐに表情を改め、
「はい。ありがとうございます」
その胸に拳を当てた。
それからテオは表情を少し崩し、
「しかし従士どの、あなたはその鏡で一体何を……」
尋ねかけたところで不意にその肩をつかまれて振り向くと、凶暴な笑みを浮かべたリディアの顔があった。
「な、なんだよ」
「今、ショールがしたことについて、余計な詮索はしないように。あと、絶対に他に漏らすんじゃないよ」
「え……?」
「漏らすんじゃないよ?」
「あ、ああ……」
「お母様も、お父様もだからね」
低く、脅すように言ったが、彼女の父は温和な笑みを崩さず、母もさらりと、
「当たり前だ。私や旦那様をなんだと思ってる」
その後、弓の試し打ちをすることになった。
市庁舎の敷地の一角に、射撃場がある。普段はほぼ使用されることのない場所だった。
分厚い石の壁に囲まれた砂場の上に、円形の的が立てられる。
「似合ってるじゃない」
「からかわないでくれ」
テオは褐色の軍服を身に着け、帯剣していた。首に巻いた青いクラバットを襟元に入れ、頭には革製の三角帽子を被っている。左右の折り返しが鳥の翼のように立ち、クチバシを思わせる鍔が額にかかっていた。
右手に持つ弓には彼自身の手で弦が張られ、右の腰に矢筒を下げていた。
テオは的から30メートルほどの位置につき、腰の筒から矢を取り出す。
居合わせた役人や衛士たちは怪訝な顔をしていた。
衛士のひとりが小さくつぶやく。
「銃ではなく、弓なのか?」
その彼にリディアの母が笑顔で振り向く。
「いいから見ていなさい」
衛士は背筋を伸ばした。
人目の集まる中で試し打ちをすることに、最初テオは恥ずかしげな表情も見せていたが、いざ矢をつがえると、その顔から余念は消え、細めた視線は的に集中した。
弦を引き絞りながら狙いをつけ、一呼吸とともにぴたりと動きを止める。
その一瞬は、彼の整った容姿と相まって、彫像のような美しさがあった。
矢は、鋭く、鳴くような音とともに放たれた。
そして、的の中心をあやまたず貫く。貫いて的を砕き、そのまま勢いを落とすことなく後方へ飛んでいった。
そしてその矢は、銃の発砲に似た音とともに石壁に突き立った。
「いい腕だ」
ショールは平坦ながらもすぐに賞賛の言葉を述べた。リディアは呆れたような目をし、その父母は小さく開けた口から、感嘆の声を漏らした。
テオはその他の見物人と同じく、間抜けな顔で自ら放った矢を見ていた。
「え……、いや、俺……?」
矢は、矢羽根の寸前に至るまで、深く石の壁に突き立ち、その石のブロックに蜘蛛の巣のようなひびを走らせ、その破片をパラパラと落としていた。
リディアの母は戸惑うテオに可笑しそうに声をかける。
「君はその弓の名を聞いていないのかい? 『船を沈めるもの』という名前だったはずだよ」
「だがもう何度か試し打ちをした方がいいな。ある程度、君の意思で威力を調整できるはずだ」
ショールがそう言うと、リディアは矢の束を手につかつかとテオに歩み寄った。
今夜はここまでにします。明日以降、19時と20時にそれぞれ投稿します。




