鉄と怨嗟の目覚め①
森の中、人に忘れられた沼があった。
地下からの水が形成した沼だった。人間の背よりも高いアシやヨシが周囲を囲み、その中で縄張りを主張するかのごとく、ヤナギやハンノキが根を広げている。
水場に向かう獣が作った道をかきわけ、ひとりの男が沼地に進む。鳥打帽をかぶった中年で、どこにでもいる工夫のように見えるが、その目は爛々と月夜に光り、口元は引き絞った弓のようで、近づきがたい狂気じみた気配がある。
荒々しく、左右に葦をかき分けながら進んでいる。靴を超えて足元を濡らす、ぬかるんだ地面がそうさせるのか、それとも常に何かに苛立つ性分なのか。
ぬかるみに足首までとられて舌打ちし、ハンノキの、骨のごとき根を足場にした。その幹に触れたとき、男の手に何かが付いた。ハンノキの樹液だ。ランタンに照らされたそれは血のように赤い。
鳥打帽の男は葦の森をかきわけて進んだ。
視界が開けた。沼が満月に照らされている。
男は一息つくと、忌々し気にカバンをあさり、小さな包みを取り出した。中にあったのは黄色い鉱石、石黄だ。男はそれに呪詛のごとき呪文をつぶやくと、ひとつ息を吹きかけ、沼地に投げた。
沼地は耳が痛くなるほど静かだった。虫の音すら聞こえない。
雲が流れて月影を隠そうとするころ、沼のある一点で、泡がぽつ、ぽつとわき出てきた。最初は沼地のあちこちから湧き出る泡に紛れていたが、それは少しづつ勢いを増し、細い泡の線を成して後にその泡は大きく、勢いは強くなった。
待ちぼうけていた男の耳にも、その音は届いた。
月が隠れた。その時には泡は水面を揺らすほどになり、その奥に見える赤い光を、男は注視した。
闇の中で、血のように赤い光がぼうと、水面の上に浮かび上がった。
光は、ランタンのものだった。それは、泡とともに現れた女の手にぶら下げられていた。
水面に立つその女を、男は最初、人形かと思った。力なくうなだれた頭から、濡れそぼった長い髪が垂れて裸体を隠していたが、その体は、赤い光に照らされているのを見た限りでも、異様に艶めいて見えた。髪の間から覗いて見える顔も、肌と同じく蝋でできたかのように皺ひとつなく、表情のない顔の中で、目はガラス玉か何かに見えた。
その目が動いて自分に向けられたとき、男は思わず後ずさりそうになった。
女の口が小さく動いた。
「お主がクレトスの子かえ?」
無感情な顔から漏れたのは、若く美しい見た目を裏切る、しわがれた老婆のごとき声。それも、確かに感情が乗った響きがあった。あざけりと、狂気じみた響きが。
鳥打帽の男はしばし口元を振るえさせ女を睨んだ後、引きかけた自分の腰を振り切るように言った。
「……そうだ。俺こそ大師クレトスが弟子のひとりだ。お前がアブロヌの魔術師だな。仲間のところに案内する」
霧のかかる森の中を進む一団がいる。先ほどの沼の女と、それを迎えた男の姿もある。
一団は、女が先導していた。男の仲間から渡されたローブと外套で身をくるみ、フードで頭を覆っている。その腰はほとんど直角に曲がり、右手に橙色の炎が揺れるランタンをぶら下げている。
沼の女は、ころころとよく喋った。無機質な若い顔が見えなければ、そしてその言葉の響きに、汚泥のような粘性を感じなければ、どこかのおしゃべりな老婆かと思ったかもしれない。
「島船そのものに向かうのは我らにもかなわぬ。忌々しいことだが。だが、湖までなら案内できる。うぬらの主を取り巻く怨念は、闇夜の灯台のようにはっきりと見えるのだ」
彼女が案内しているのは、10名ほどの男女だった。沼を訪れた鳥打帽の男も含め、いずれも特徴のない、どこにでもいそうな格好をしている。あえて言うなら商人に見えるか。ひとり、大きな木箱を背負っている男がいる。
「なぜ我らにも見えぬものが、お前に見えるのだ」
鳥打帽の男が牙をむく犬のような表情で、忌々しげに唸った。
「この世の多くで忘れられたもの、うぬらですら知らぬものを、我らはいまだに伝えておるのよ」
歩みを止めず振り向いた女の、作り物のごとき顔から滲む瘴気は、いずれも常の者でない男たちですら、ぞくりとさせるに足るものだった。
女の、作り物と言われても不思議に思えない青の目は毒の沼を思わせ、その流し目を受けて、鳥打帽の男は息を吞みそうになった。そしてその反動から男は女を睨めつけ、狼の唸るような声で、
「その言い様は、我らを侮辱しているように聞こえるが?」
すると女は笑った。いや、その鮮血を思わせる赤の唇からは、くっくと声は漏れているのだが、表情が一切変わらない。
「侮辱ではないぞ、クレトスの子らよ。しかし疑問はある。我が今用いている術は、それほど難儀なものではない。うぬらの主もそれを用いるがゆえに我らを呼んで案内を頼んだのであろう。しかしうぬらはできぬ。うぬらの主は、易々とそのわざを伝えてはくれぬということかえ?」
「当然だ。俗物どもがエーテル論なるもので作った、安っぽい似非魔術とは違う。大師のそれは神々の時代より続く真の魔法だ。揺るがぬ忠誠とたゆまぬ貢献を積み重ねてこそ、主はその秘法を我らに紐解いてくださるのだ」
その声と表情には恍惚としたものがあったが、
「くく……、昔気質の秘密主義よのう」
「それは愚弄か、きさま」
鳥打帽の男とその一団が立ち止まり、殺気立った。
女も足を止め、その身を男たちに向ける。
「考え方の違いに感心したのよ。我が主はその魔術を決して秘匿せぬ。望む者に惜しみなくみわざを伝える。その毒がこの世の果てまで犯すことを望んでおられるからだ」
女の仮面のごとき顔が、ぐにゃりとゆがんだ。左目を剥いて右目を剃刀のように細め、ひしゃげた唇から覗く口の中は、いくつかの真っ黒な歯のみが残されていた。
「そう、我らの術は欲望と進化の神、大神マガファが与えたまいし毒だ、クレトスの子らよ。望むならうぬらに教授してやってもよい。それを見知らぬ誰かに伝えてもよいぞ。いや伝えよ。我らが主、大いなる魔女とその伴侶たる大王アブロヌ、そして地獄で苦しみもがき給う大神マガファは、この世を醜く飾り立てる虚飾が、毒で腐り堕ちることを望んでおるのだ……」
そこまで口にして、女ははっとしたように顔を上げた。そして外套のたもとで顔を隠すと、そそくさと男たちの間に入り込もうとした。
その際男に、
「テンプルガードどもだ」
男たちははっとして、こそこそと寄り合った。
だが、
「おい、全部聞こえてたぞ」
森の茂みから若い男の声がした。銃を油断なく構え、その男は男なく現れて集団の前方を塞ぐ。アレコスだ。
同時に昼のように周囲が明るく照らされた。聖禽隊のバトルメイジ、キモンだ。アレコスの斜め後ろに随伴し、短杖を構え、もう片方の手からエーテル灯の光を男たちに照射していた。
「頭に大穴開けられたくなけりゃ動くんじゃねえぞ。すぐに聖戦士も来る。てめえらが言うところの守衛がな」
そう言いながら、男たちの後方からギデオンも銃をかまえて姿を現した。
一方、軍装がカチャカチャと鳴る音が近づいてくる。それも相当の人数だ。
ギデオンはただでさえ抜き身の刃のような目に、さらに危険な光を宿し、男たちを見据えた。
「三人相手なら殺して逃げられるとか思ってんなら、試してみてもいいんだぜ」
「お、お待ちを……」
鳥打帽の男がギデオンの前に進み出た。大男だから上官だとでも思ったのか。
「何かの間違いです。我々はただ道に迷って」
「苦しい言い訳だな」
アレコスがぴしゃりと言った。その銃口は、男たちの中心に紛れていった、沼の女に向けられている。
「面白い会話をしていたな。クレトスの子と呼ばれていたか。クレトスとは、青銅巨人を作った、あの暴君クレトスのことか? そしてその女……」
「間違いありませんね。私たちが追ってきたエーテル反応です」
キモンがアレコスの後ろで杖についた水晶の反応を見ながら言う。
その間に、聖戦士たちが、馬にも勝るかという速さで駆けつけ、たちまち男たちを取り囲む。バイアン、へレインの夫婦に、へレインに随行する少女テティスだ。いずれも聖戦士の証である小さな円形の盾を構えている。
聖戦士らは男たちの後方を囲み、ギデオンは銃を構えたまま、アレコスらといる前方へと位置を移した。
やや遅れて、随行の兵たちも現れて男たちを取り囲んだ。エーテル灯がさらに照らされ、周囲は昼のようになった。
随行の兵士たちの後ろから、老兵を従えて、銀の仮面の聖戦士が悠然と進み出てきた。
「銀仮面卿……」
鳥打帽の男がうめいた。その目に、先ほどまで見せていた凶悪な光の片鱗が戻った。
男たちを睨み据えるレフテリスの目は、剃刀の鋭さだった。
彼が横を通りかかったところで、へレインが男たちを見やったまま呟く。
「一応言っておきますが……、真ん中の女にアブロヌ派のエーテル反応があります」
「ああ、わざわざ調べずとも、見れば分かる」
レフテリスは、右手に持つ、杖のようなもの、あるいは槍の柄のようなものを握り直した。
「間違いない。アブロヌの信奉者、それも深く奴らの魔術を修めた輩だ」
エーテル灯の照らす中、その銀の仮面がきらめき、右の目も険しく歪められた。




