被験者SL
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。
とある大学内の旧校舎――
青年はその二階にある研究所のドアの前に立っていた。
治験募集のポスターが目に留まり、小遣い稼ぎのつもりで応募してみたのだ。
そして今日はその治験の日。青年は手に汗を握りながら、静かにドアをノックした。
扉が開くと、白衣をまとった30代ほどの男性が顔を覗かせた。
肩まで伸びた黒髪、日に焼けていない青白い肌――
その姿に、青年は直感的に「この人が博士だ」と確信する。
「君が、僕の実験に協力してくれる学生かい? さあ、入って」
博士に促されて、青年は薄暗い研究室の扉をくぐる。
一歩踏み入れた空間は、実験室の手前にある作業室だった。
天井は高く、本棚には生物学や薬学の専門書がずらりと並び、時間の重みすら感じさせる。
博士は机の横に立ち、柔らかな声で治験の説明を始める。
「じゃあまず、この問診票と同意書を記入して、それからこの患者服に着替えてね」
青年は机の上の書類に向かい、問診票に目を通す。
記載内容は、身長・体重・アレルギーの有無や既往歴など、ごく普通のものだった。
問診票を終え、続けて同意書に目を移す。
そこには一文、気になる記述があった。
「この治験の内容を外部に口外しないことに同意いたします。」
ほんの少しの違和感。
しかし青年は、研究発表前だからだろうと自分を納得させ、署名を終えた。
患者服は少し変わった構造だった。上着は前面と袖に結ばれた紐で留められており、下は伸縮性の高い素材で、体型の変化にも耐えられる作りのようだった。
着替えを済ませた青年は、博士に案内され、奥の実験室へと向かう。
そこで彼が目にしたのは、部屋の中央に置かれた異様に大きなベッドだった。
横幅は三メートル近く、人間が使うには明らかに規格外だった。
「博士、これが……例の実験ですか?」
問いかける青年に、博士は満足そうな笑みを浮かべながら手袋をはめ直す。
「そうだよ。君の身体に秘められた“可能性”を確かめるためのね」
青年が何かを返そうとした、その瞬間――
博士は素早く手を伸ばし、彼の首筋に冷たい何かを押し当てた。
「えっ……!?」
驚く間もなく、鋭い痛みが走る。 注射器が抜かれる音がしたときには、すでに全身に痺れが広がっていた。
青年はふらつき、巨大なベッドに倒れ込む。
「だ、大丈夫……なのか……?」
喘ぐように声を漏らす青年。その傍らで、博士は無表情のまま観察を続ける。その瞳には冷たい光が宿り、青年の変化を隅々まで見逃すまいとする狂気が垣間見えた。
やがて、しびれが痛みに変わり始める。体の奥底から何かが、ゆっくりと、だが確実に姿を変えようとしていた。
「ッ……あああっ……!」
ミシミシ……バキッ……ギギギ……
骨の軋む音、肉が引き延ばされるような不気味な音が体内から響く。指先の爪は鋭く伸び、肌には白くしなやかな毛が生え始めた。背中が弓なりに反り返るたび、背骨が音を立てて伸びていく。
ギュゥゥ……ムグッ…ムグッ…
音を立てて膨張する筋肉。胸、腕、腹と、内側から押し出されるように隆起していく。前と袖を紐で留められていた患者服の結び目がほどけ、変貌した肉体が露わになる。
「素晴らしい……」
博士は感嘆の吐息を漏らすと、ゆっくりと手袋を外した。その手が青年の隆起した筋肉に触れる。熱を帯び、膨らみ続ける肩から胸、盛り上がる腕へと、まるで彫刻を愛でるかのように滑らせていく。
その手つきは異様に丁寧で、なぞるように、優しく、時に指先で確かめるように撫でる。指先が青年の腹部をなぞるたび、筋肉が震え、変化の進行を促しているかのようだった。
「うっ……ちょっと……なに……して……!」
青年が言葉を吐こうとするが、口内に生え始めた牙がそれを阻む。うめきは低く、しだいに獣の咆哮のような唸り声へと変わっていく。
博士の手は首筋から肩へ、そしてわき腹へとゆっくり滑る。その指先は、変化した皮膚と筋肉の硬さを確かめながら、官能的なまでに執拗だった。
「痛いかい?でももうすぐ、君は素晴らしい獣人に生まれ変わる。実に興味深い…」
青年の体は急激に拡大し、身長はあっという間に2メートルを超える。全身を覆うのは白銀の毛皮。その青く光る眼は鋭く、ユキヒョウを思わせる風貌はもはや人間のそれではなかった。
「はぁ……ガルッ……はぁ……」
深く低い息遣いとともに、青年──いや、獣人は博士を睨みつける。しかし変化直後の体は重く、思うように動けない。博士はそんな彼の顔を間近で覗き込み、愉快そうに笑う。
青年は荒い息をつきながら、獣の咆哮のような低い声を漏らした。その瞳は博士を睨むように光るが、変化したばかりで力が入らないせいかベッドから動けない。
博士はそんな青年の顔を覗き込み、愉快そうに微笑んだ。
「ふむ、君はユキヒョウの獣人に変わるのか。ふふ、どんな感じに変わったか、じっくり観察させてもらおうか」
そう言うと、博士は手袋を外し、素肌のまま青年の身体に触れはじめた。
毛皮の生えた肩にそっと指を這わせ、ぬるりと撫でるように触れる。青年の筋肉は隆起し、触れるたびに微かに震える。
……ふふ、この筋肉の張り、完全に人間を超えてるね」
囁くような声とともに、博士の指先が首筋から鎖骨、そして胸元へと滑っていく。まるで毛皮の奥に隠された鼓動そのものを確かめるように、指は執拗にその下の脈動をなぞった。
「いやっ……やめて……」
青年は低く唸るように声を漏らし、身じろぎするが、その動きは鈍い。睨むような眼差しには怒りと……わずかな羞恥の色が混ざっていた。
「その目……いいね。まるで野生と理性の狭間を揺れてるみたいだ」
くすぐるように笑いながら、博士の手は腹部へと滑り込む。毛並みを逆立てるように撫でられた瞬間、青年の体がびくりと跳ねた。
「……っ、く…!」
「ほう……ここは敏感なんだね」
博士はその部位にそっと触れ続ける。毛皮に覆われた腹がじんわりと熱を帯び、獣人となった青年の肌からは、獣特有の匂いが立ちのぼっていた。
その香りを嗅ぐように、博士は青年の首元に顔を近づける。
「ふふ……実に野生的だ。やっぱり、獣人の香りは独特で魅力的だね」
青年は牙を剥いて唸る。しかしその声に、もはや鋭さはなかった。
「大丈夫、観察はもうすぐ終わる。でもね……君の“全部”を記録しなくちゃ」
まるで恋人を慈しむような声音で、博士は再び毛皮に指を滑らせた。爪の先、目の輝き、呼吸のリズム、筋肉の微細な動き――そのすべてを、熱を帯びた視線で見つめながら。
—――――――――
やがて、博士の観察が一通り終わる頃、青年の呼吸は徐々に落ち着いていった。
しかし次の瞬間――獣の姿が崩れ始める兆しが、青年の体に現れた。
「……戻るのか。やはり変化は一時的なものか」
博士の囁きが耳元に届いた瞬間、青年の身体に再び異変が走る。
白銀の毛が音もなく引いていき、代わりに人間の皮膚がその下から現れようとしていた。
「っ……く、あ……っ」
爪は縮み、牙は鈍くなり、骨格が軋むように変化していく。その過程は獣化の時とは異なり、まるで身体が内側から圧縮されるような苦しみを伴っていた。背骨がひとつひとつ折れ直されるような音が背中から響き、青年は苦しげにベッドの上でもがいた。
「っ……ぐ、う……!」
毛皮の奥から再び現れた肌は汗に濡れ、筋肉は膨張と萎縮の狭間で震える。変化は不安定で、体全体がひきつれていた。
博士は一歩引いた位置から、無言でその様子を見つめていた。
やがて――青年の体が完全に人間の姿に戻る。
「……っは、ぁ……」
全身は汗に濡れ、露わになった上半身が光を受けて艶やかにきらめいていた。乱れた髪、赤みを帯びた眼差し、そして震える喉からこぼれる息。
博士はそっと近づくと、用意していたタオルで青年の額を優しく拭う。
「大丈夫かい? 想像以上に、身体には負担がかかっていたようだね」
その言葉とは裏腹に、博士の瞳はどこか楽しげに笑っていた。
青年は眉をひそめ、怯えと怒りの入り混じった眼差しで睨みつける。
「……これ、本当に……ただの治験なんかじゃ……」
「ふふ、そう怒らないで。これはね、君の“新しい本質”を知るための第一歩なんだ」
博士は指先で青年の頬を撫で、唇が触れるほどの距離まで顔を寄せた。
「君は……とても美しい変化を遂げた。今まで見たどの被験者よりも、ね」
青年は目を見開いたまま、力の入らない身体をベッドに沈める。熱を持った肌に、博士の指が再び触れると、わずかに身をよじるが、もう抵抗する力は残っていなかった。
「これから定期的な検査が必要になるね」
囁く博士の声は優しげでありながら、どこか支配する者の響きを含んでいた。
青年は、かすれる声で呟く。
「……こんなの……聞いてない……」
「でも君は記入したじゃないか、“同意書”に。……もちろん、冗談だけどね」
白衣の袖を整えながら、博士はいつもの穏やかな声に戻って言った。
「協力ありがとう。さすがに無理やりはしないよ。また機会があればメールするから、その時は来てくれると嬉しいな」
「……はい」
どこか釈然としないまま、青年は頷いた。今はとにかく、一刻も早くこの研究所を離れたかった。
着替え室に戻り、青年は患者服に手をかける。上着は紐で簡素に結ばれただけの構造。変身中に破れなかった理由が、今になって理解できた。
(よくできてるな……)
伸縮性のある下衣も傷んでおらず、研究目的で設計された衣服の性能に、妙な感心すら抱く。
私服に着替え終え、青年は鞄を手に研究所を後にした。
扉の向こうで、博士が何か言いたげにこちらを見ていたが、結局何も言わずに静かに扉を閉じた。
夜の空気が、肌に沁みる。
旧校舎のレンガの壁が、冷たく沈んで見えた。
帰り道、青年はポケットから一枚の封筒を取り出す。大学のロゴが入った白い封筒。中には、アルバイトの一ヶ月分に相当する謝礼金が入っていた。
「……本当に、現実だったんだな」
つぶやきながら、紙幣をそっと指でなぞる。身体に残る熱と痛み、そしてこの封筒の重みが――今日体験したすべてが、夢ではなかったことを語っていた。
「……痛かったけど、けっこういい額だし……暇な時にまた来てもいいかもな」
少しだけ笑みを浮かべて、青年は封筒をポケットにしまい、夜の通りを歩き出した。
その足取りは軽やかで……どこか、未練がましくもあった。