第89話『それぞれの目標!?』
椅子の背もたれに身体を預けたまま、アオイは静かに目を閉じた。部屋にはエアコンの送風音だけが漂い、外の喧騒から切り離されたような静けさがあった。胸の奥に、ぽっかりと空いた空洞。言葉にできない思いが、胸の中でじんわりと広がっていく。
――ミカンちゃんは、全部覚えてたんだ……
歌手をやめたとき、Wensで再会したときも――ミカンは、あの小さな約束をずっと胸にしまい込んでいたのだろう。なのに自分は、そんな大事なことを忘れていた。ただ、彼女は何も言わず、明るく笑ってくれていた。その笑顔の裏に、どれだけの想いがあったのか。想像すると、アオイの胸はひどく締めつけられた。
——思い出したこと、話すべきかな……
けれど、伝える勇気は出なかった。それを言葉にした瞬間、何かを決断してしまいそうな気がしていた。迷いのままに留まることも、今のアオイにとってはひとつの防波堤だった。
そのとき、机の上に置いたスマホが小さく震えた。画面を見ると、"ミドリ"の名前が表示されていた。アオイは小さく息を呑む。
「……もしもし」
「もしもし。あの……さっきのミカンちゃんのって……」
電話の向こうから聞こえる声は、わずかに戸惑っていた。きっと、さっきの配信を観ていたのだろう。
「あはは……きっと、俺に向けて言ってるんだと思います」
軽く笑って答えたが、それはどこか自分を誤魔化すような、乾いた笑いだった。
「表見さんも……辞めたりしちゃうんですか?」
その言葉に、アオイの背筋がピンと伸びた。ミドリの声には、不安がにじんでいた。
「やっ、辞めませんよ! 安心してください!」
「……よかった」
電話越しに、小さく息を吐く音が聞こえた。その素直な反応に、アオイは一瞬言葉を失う。だが同時に、心の奥底に沈んでいた思いが、ふっと浮かび上がってくる。
数秒、黙り込んだ。ほんのわずかな静寂だったが、その沈黙には確かな重さがあった。
「どうしました?」
「すいません、正直に言うと……ちょっと葛藤してて……」
声に出すと、自分の未熟さがあらわになるようで気恥ずかしかった。それでも、嘘をつくよりはずっとマシだった。
「そうなんですね……」
「でもっ、すぐに辞めるとか、そういうのじゃないです! まだ、VTuberとして自分が納得できるようなこと……何かを成し遂げたわけじゃないですから!」
勢いにまかせて言い切ったあと、アオイは深く息を吸い込んだ。
「納得できること? それって、どんなことですか?」
「それは……」
言いかけて、言葉が詰まる。何も出てこなかった。自分の中に、明確な目標がないことに気づいて、唇を噛んだ。
——ミカンちゃんにも、同じこと聞かれたな……
「みっ、ミドリさんは、夢とか目標ってありますか?」
話題を逸らすように尋ねたその言葉は、逃げるような響きを帯びていた。自分でもそれを自覚して、思わず苦笑が漏れる。
「わたしですか!?」
ミドリが少し驚いたように声を上げ、それから慎重に言葉を選びながら話し始めた。
「わたし、VTuberを始める前は、夢とかなくて……実家の和菓子屋を継ぐんだろうなって、ぼんやり考えてたんです。そんなときに、西園寺さんが店にお客として来てくれて……対応したとき、声を褒めてくれたんですよ」
「そうなんですね……」
「それで、『VTuberやらない?』って誘われて……流されるままに始めたような感じでした」
少し照れたように笑いながら、ミドリは言葉を続けた。
「でもVTuberになって、声を使う仕事をしていくうちに……色んな人から声を褒めてもらえるようになって。嬉しかったんです」
「ミドリさんの声、俺も素敵だと思います」
「ありがとうございます……」
電話越しに、彼女が照れているのが伝わってきた。
「それで今は、VTuberを続けながら、将来的にはナレーションとか声優とか……声の仕事の幅を広げていきたいって思ってます。それが、今の目標です」
まっすぐで、芯のある声だった。自分の足で一歩ずつ進もうとしているその姿に、アオイは素直に感心した。
「ミドリさんなら、きっと叶えられますよ」
「ありがとうございます!」
その返事は、少し誇らしげにも聞こえた。
「表見さんは……どんな目標があるんですか?」
再び向けられた問いに、アオイはまたも言葉を詰まらせた。
「俺は……まだ、具体的な目標が見えてないんですよね……」
口にした瞬間、情けなさが込み上げた。誰かに認められるために始めたわけじゃない。けれど、何かを成し遂げたくて始めたわけでもなかった。その曖昧さが、不安となって胸を圧迫する。
「これから考えればいいじゃないですか!」
ミドリが、焦ったように言った。
「ですかね……」
「とりあえずは、200万人目指しましょ!」
「そうします……ありがとうございます」
「全然ですよ!」
明るく励ましてくれるミドリの声に、自然とアオイの頬が緩んだ。そうしてしばらく他愛ない話を交わし、電話は和やかに終わった。
スマホをそっと机に置き、アオイは再び背もたれに身を預けた。
けれど、ミカンのこと、目標のこと、まだ言葉にならない数々の想いが、頭の中をぐるぐると回っていた。
そのとき、画面に新着通知が表示された。
“シロ”からだった。
『この前お話ししたカラモンの大会ですが、明後日と明明後日に開催されるのですが、どちらかお時間ありますか?』
画面をじっと見つめながら、アオイは思った。
——いい機会かもしれない
何を目指しているのか、自分でもまだよくわからない。だからこそ、WensでVTuber歴が一番長いというシロに、少し話を聞いてもらいたい——そう思った。
アオイはスマホを手に取り、メッセージを打ち始めた。
『明後日なら、空いてます』
***
「アオイさーん、こっちですよー!」
駅前の広場で手を振るシロの姿を見つけて、アオイは小走りに駆け寄った。
「お待たせしました!」
「ふふふっ。今日はよろしくお願いします」
シロは真っ白なワンピースに、黒い日傘を差していた。日差しを受けて輝くその姿は、まるで別世界の住人のようだった。自分がシロの隣に並ぶことが、どこか場違いな気さえして、内心落ち着かなかった。
二人は、大会が行われるという会場へと向かう。
「結構広いんですね……」
到着したホールを見て、アオイは思わず感嘆の声を漏らした。公式主催ということもあり、会場は想像以上に大きく、エントランス前には既に大勢の来場者が集まっていた。
会場内に入ると、物販ブースがずらりと並び、すでに人だかりができていた。
「大会に出ないで、物販だけ目当てで来る人も多いんですよ」
「はぇ〜」
アオイはその熱気に圧倒されながら、周囲を見渡した。普段は画面越しの世界だったカラモンの熱狂が、こうして現実の空間として立ち現れている。それだけで、不思議と胸が高鳴った。
「とりあえず、受付でエントリー済ませちゃいましょうか」
「そうですね」
列に並びながら、アオイは今日がどんな一日になるかを思い描いた。
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また『30歳無職だった俺、女声を使ってVTuberになる!?』キャラクターガイドブックの投稿も始めました。
最新話までのネタバレを含む可能性があるので、閲覧の際はご注意ください。
短編集『成長』シリーズも、不定期に投稿しています。
どれも短い物語ですが、成長の大切さや本当の強さとは何かを考えながら、心を込めて書きました。
ぜひ読んでいただけると嬉しいです。




