第87話『時の流れは早いもの!?』
会場の扉を開けてすぐ、目の前に置かれたロビーのソファ。明るく開放的なその空間で、アオイはシオンと並んで腰を下ろしていた。扉の向こうからはパーティーの音楽や談笑が漏れ聞こえてきていたが、この場所には、ほんのわずかな静けさが漂っていた。
「わたしは、彼女から事前に聞いていたのだけれど……お兄ちゃんには言わないでって、言われてたのよ」
シオンの声は静かで、どこか申し訳なさそうだった。
「そうなんですね……」
アオイは視線を下げたまま、それだけを絞り出した。心の奥ではミカンの選択を理解しようと努めながらも、別の感情が静かに胸をざわつかせていた。彼女が“ミカン”としてこれから先へ進んでいく姿を想像するたび、自分の中に、言葉にならないざらついたものが芽を出すのを感じていた。
「繋がりがなくなるわけではないのだから」
その言葉に、アオイはわずかにうなずいた。理解はしていた。だが、感情の整理というものは、理屈ほどすぐには片づかない。
「……そうですね」
ちょうどそのときだった。会場の方から近づいてくる足音とともに、間の抜けた明るい声が響いた。
「やあやあ、お二人さん! そんなしんみりしなさんな〜」
手をひらひら振りながらやってきたのは、西園寺だった。無邪気な笑顔を浮かべているが、その空気の読めなさに、アオイは思わず鋭い視線を送った。
「……」
その視線を受けて、西園寺は肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
「サプライズって……ミカンちゃんのことだったんですか?」
アオイの声は静かだったが、その中にはどこか乾いた温度が滲んでいた。感情というより、確認するような響きだった。
隣のシオンが、目を細めてぽつりと呟く。
「クズね」
「あはは……勘弁してよ。そんなタチの悪いことしないさ。サプライズはMVのことだよ、ほんとに。ミカンちゃんからは、誰にも、“特に表見くんには言わないで”って、きつく念を押されてたんだよ」
アオイは言葉に詰まり、わずかに視線を逸らした。
「……そうですよね。すみません」
自分の中の戸惑いを言葉にしたような謝罪だったが、西園寺はすぐに首を振った。
「謝らないでよ! まあ、卒業しちゃうことは寂しいけどさ……応援してあげないと」
「……はい」
アオイの返事には、まだどこか迷いが残っていた。それでも、西園寺はそれ以上は踏み込まず、変わらぬ笑顔で言った。
「とりあえず、こんなとこにいたらみんな心配するから、戻っておいでよ」
シオンが立ち上がり、スカートの裾を軽く払う。
「それはそうね」
アオイもゆっくりと腰を上げ、二人とともに会場へ戻ることにした。
***
会場に戻ると、真っ先にミドリが駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか……?」
「すいません。大丈夫です。軽い腹痛で……」
心配そうな視線に、アオイは思わず頭をかきながら、気まずそうに笑った。
その視線の先――ミカンが、仲間たちに囲まれていた。
「ミカンちゃん、辞めちゃうの寂しいよー!」
コガネの声に、ナマリが大きくうなずく。
「いきなりだよね〜」とカレハが口を尖らせ、「ほんまやでー!」とミャータがやや不満げに言った。
「みんな大袈裟だよ。それに、ライブだって招待させてもらうからね〜!」
ミカンの声は明るかったが、その笑顔の奥には、どこか照れくさそうな陰が見えた。
「あら、横浜ドームでのライブだったら行ってあげてもいいわよ」
シオンのからかうような声に、ミカンがぱっと目を輝かせる。
「横浜ドーム……まだちょっと遠いけど、絶対辿り着いてみせますよ!」
「期待してるわよ。ねっ、お兄ちゃん」
ふいに向けられた言葉に、アオイはわずかに顔を上げた。
「うん……」
その声は小さく、表情もまだ晴れない。
シオンがそんな彼の脇腹を、肘でぐいと突く。
「うっ!」
思わず声を漏らして振り返ると、シオンがじっとこちらを見つめていた。顎を小さくしゃくる。その意味を、アオイはすぐに察した。
そして一度だけ深呼吸をしてから、アオイはミカンに歩み寄った。
「……ミカンちゃん。ファイト」
右手をそっと前に出し、拳を差し出す。
その仕草に、ミカンが弾けるように笑った。
「あははっ、グータッチって!」
「アオイさん、カッコつけ過ぎやで……」
ミャータが肩をすくめる。
「グータッチはちょっと……」
カレハも苦笑する。
みんなの視線を受けて、アオイは恥ずかしさが込み上げてくる。
だが、次の瞬間――
「ファイト」
シオンがふいに言って、同じように拳を差し出した。
「シオンさん……」
アオイが戸惑いながら呟く。
ミカンは一瞬目を見開いたあと、ふっと息を吐いて笑顔になった。
「任せてください!」
その拳を、アオイとシオンの拳に重ねた。
三つの拳がそっと触れ合い、小さな輪がそこにできた。誰も言葉を発さなかったが、それぞれの胸には、温かな灯がともったようだった。
そして、宴は再び始まった。笑い声と音楽が重なり、夜の空気を少しだけ軽くしてくれた。
***
パーティーが終わり、ひとりまたひとりと帰っていく中で、ミカンがアオイの元へと歩いてきた。
「一緒に帰りませんか」
小さな声だったが、まっすぐな眼差しだった。
アオイは一瞬だけ戸惑ったが、すぐにうなずいた。
「……うん。いいよ」
夜風が吹く中、二人は並んで会場の前を歩き出す。
「アオイさんは、VTuberとしての目標とかはあるんですか?」
歩きながら、ミカンがふいに尋ねた。
「目標……あんまり考えたことなかったなぁ。最初は就活に息詰まってて、西園寺さんと出会って、流されるまま始めたからさ」
「例えば、登録者数で1番になるとか」
「うーん……そうだね。でも、誰かより上になりたいとか、競いたいとか、正直ないんだよね。WensのVTuberはみんな仲間だと思ってるし」
ミカンはクスッと笑った。
「アオイさんらしいですね」
その笑みには、どこか安心したような柔らかさがあった。
二人はやがて、駅の近くにある小さな公園にたどり着いた。滑り台とブランコ、ベンチがぽつんとあるだけの静かな場所。思い出が染みついたような空気があった。
アオイはベンチに腰を下ろし、肩で息をついた。
「結構、歩いたね……」
うつむいたまま、息を整える。その隣で、ミカンがふっと笑う。
「なんか、表見さんと再会してからの数ヶ月、あっという間だったな〜」
「あはは……時の流れは早いよね……」
アオイが応じると、ミカンが唐突に声を強めた。
「そうですよ! 早くしないと、手の届かない所に行っちゃいますからね〜」
「何言ってんの……」
アオイが顔を上げると、ミカンの顔が、すぐ目の前にあった。
息を呑む。動けない。
ミカンの瞳は真剣で、彼をまっすぐに見つめていた――。
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また『30歳無職だった俺、女声を使ってVTuberになる!?』キャラクターガイドブックの投稿も始めました。
最新話までのネタバレを含む可能性があるので、閲覧の際はご注意ください。
短編集『成長』シリーズも、不定期に投稿しています。
どれも短い物語ですが、成長の大切さや本当の強さとは何かを考えながら、心を込めて書きました。
ぜひ読んでいただけると嬉しいです。




