第83話『練習とパンケーキ!?』
スタジオに、軽やかなビートが流れ出す。
最初に耳に飛び込んできたのは、力強いバスドラムと、温かみのあるエレキギターのサウンドだった。そこに、伸びやかなゴスペルコーラスが重なり、まるで天へ昇るかのような解放感をもたらしてくる。一方で、歪み気味のギターリフが曲全体に荒々しい勢いを与えており、ただのゴスペルでも、ただのロックでもない、どこか神聖で、けれど泥臭さも孕んだ独特なサウンドが広がっていた。
アオイは自然と胸が高鳴るのを感じた。
この曲を、カレハとナマリがどう歌い上げるのか――。
イントロが終わり、カレハが歌い出す。
「……」
その声は、やはり特別だった。可愛らしさと美しさ、その両方を絶妙なバランスで併せ持った、柔らかく掠れた声。まるで一筋の春風のように、心をそっと撫でる。それでいて芯があり、聴く者の耳に心地よく届く。
続くナマリのパート。
その歌声は対照的だった。低音域から中音域にかけて、圧倒的な太さとパワフルさを備え、まるで大地を揺らすような響きを持っている。喉を絞るでもなく、自然に押し出される声量が、歌に力強い生命感を宿していた。
ふたりの声が交錯し、重なり合うたびに、スタジオの空気が震えた。
アオイは、ただ息を呑んで聴き入るしかなかった。
互いに異なる個性を持ちながらも、不思議なほど自然に溶け合っていく。それはまるで、別々の川が一つの大河に合流していくかのような、運命的な一体感だった。
そして、曲が静かに終わる。
余韻がスタジオに漂う中、アオイは呆然と立ち尽くしていた。
「……あっ」
ようやく言葉を発したが、何も続かない。
本当に、何もアドバイスすることが思い浮かばなかったのだ。
苦笑いを浮かべながら、アオイは手を軽く広げた。
「ふっ、二人は……ここが気になるとか、そういうとこはある?」
カレハがふわりと手を挙げる。
「Bメロの低いところがちょっとフラフラしちゃうんですよね〜」
アオイは少し考え、優しく言葉を選ぶ。
「そこは意識的に、低音をちょっとだけ前に押し出すように歌ってみると、安定しやすいと思う」
「なるほど〜」
カレハは感心した様子で頷いた。
次にナマリが手を挙げ、少しもじもじとしながら言った。
「ワタシは逆に……サビが少し高くて、出ないことはないんだけど、声質をキープし辛い……」
「うんうん。サビって、どうしてもテンションが上がるからね。そこは声を張り上げるより、ちょっと引き気味に、後ろに引っ張るように歌ったほうが、パワフルに聴こえると思う」
「やっ、やってみます!」
ナマリは小さな拳をぎゅっと握り、気合を入れた。
その後、三人はひたすら練習を重ねた。
気づけば、三時間があっという間に過ぎていた。
***
翌日、アオイがスタジオに到着すると、カレハとナマリに加えて、ミツオの姿もあった。
「あれ、ミツオさん?」
思わず声をかける。
「久しぶりね、表見きゅん」
ミツオはにっこり微笑んだ。
「今日はどうしたんですか?」
「コラボ曲の配信日に、ライブ配信して踊るんです〜」
カレハが無邪気に会話に入り込んでくる。彼女の隣でナマリも頷いた。
「それで今日は、その振り付け指導に来たわよん」
「なるほど……」
ミツオの言葉にアオイが納得しかけた瞬間――。
「表見きゅんも一緒に踊――」
「今日は踊りません!」
勢いよく遮ると、ミツオが肩をすくめた。
「あら、アオイきゅんのいけず〜」
アオイは苦笑いするしかなかった。
その様子に、カレハとナマリもくすくすと笑っている。
やがて練習が始まり、歌いながらミツオの指導で振り付けを覚えていく。
しばらくしたときだった。
カレハが、ふいに顔をしかめて足首を押さえた。
「カレハさん!」
アオイは駆け寄り、ナマリも心配そうに見つめている。
「大丈夫ですか?」
「前のより、全然軽いんで大丈夫ですよ〜」
カレハは笑ってみせたが、無理しているのは明らかだった。
「とりあえず今日は終わりにしましょう」
ミツオがきっぱりと言った。
「ちょっと休めば大丈夫ですよ〜」
「バカ言わないの。女の子なんだから、無理しない」
ミツオのその言葉に、カレハの頬がほんのり赤く染まる。そして、少しだけ視線を逸らしながら、恥ずかしそうに答えた。
「は〜い……」
ミツオはくるりと背を向け、しゃがみ込む。
「ほらっ、乗りなさい」
「えっ、わたし重いし〜」
「何言ってるの。いいから乗りなさい」
カレハは戸惑いながらも、ミツオの背にそっと身を預けると、彼は軽々と立ち上がる。
「じゃあ、私はカレハちゃん送ってくから、後はよろしくね、表見きゅん」
「わっ、わかりました!」
背中に乗るカレハの顔は、見たこともないくらい女の子らしく、照れた色に染まっていた。
スタジオを出ていくミツオとカレハの背中を見送り、アオイはナマリに向き直った。
「じゃあ、俺たちも今日は掃除して帰ろうか」
「はっ、はい!」
二人でスタジオの片付けを始める。
モップをかけたり、備品を片付けたり――。小さな作業を並んでこなしていると、なんとなく温かな気持ちになった。
気づけば、時刻は午後一時を回っていた。
「なんか中途半端な時間になっちゃったね」
アオイがぼやくと――。
「そっ、そうです――」
ぐゥ〜……
ナマリのお腹が、可愛らしい音を立てた。
次の瞬間、ナマリの顔がタコのように真っ赤になる。
「お腹……空いたね……」
アオイが苦笑すると、ナマリはその場にへたり込み、顔を真っ赤にしたまま泣きそうになった。
***
「ふわあー!」
目の前のふわふわのパンケーキを見ながら、ナマリは目をキラキラと輝かせた。
「そっ……それはよかった……」
アオイは、ほっと胸を撫で下ろす。
二人は練習スタジオ近くの有名なパンケーキ店に来ていた。
周囲は女性客ばかりで、アオイは少し居心地悪そうに肩をすくめる。
「アオにい……ほんとにいいんですか?」
「大丈夫だよ。沢山食べなね」
どうやらナマリは財布を忘れ、スマホもバッテリー切れだったらしい。仕方なく、アオイが奢ることになったのだ。
ナマリは、小さな体に似合わない勢いで、次々とパンケーキや他のデザートを平らげていく。
アオイは、金額に一抹の不安を覚えながらも、自分も注文したパンケーキを一口。
――うまっ!
ふわふわとした生地は、口に入れた瞬間にしっとりと溶け、バターとメープルシロップの香りが優しく広がる。
ほんのりとした甘さと、芳醇なコクが絶妙に絡み合い、贅沢な味わいを生み出していた。
高いだけはある――アオイは素直にそう思いながら、もう一口、また一口と、フォークを動かした。
こうして、少し遅めの、けれど幸せな昼食時間は静かに流れていった。




