第77話『練習はばっちり!?』
「はい、これ」
東ヶ崎は無造作に小さな鍵を差し出した。アオイは鍵を受け取り、訝しげに眺めた。古びた金属の表面には、かすかな傷が刻まれている。
「なんですか、この鍵」
「練習スタジオの鍵よ。西園寺に言って借りてきた。いつでも練習できるようにね」
東ヶ崎の声はそっけない。しかし、その裏に隠れた気遣いにアオイは胸が温かくなった。彼女のこういう不器用な優しさが、最近少しずつ分かってきた気がする。
「えっ、それは助かります。ありがとうございます!」
東ヶ崎は「ふん」と鼻を鳴らし、ビールを一口飲んだ。
会話は自然とWensの今後やVTuber活動の話題に移っていった。東ヶ崎は普段の厳しい態度とは裏腹に、酒が入ると意外と饒舌になる。アオイは彼女の話に耳を傾けながら、内心で驚いていた。
——東ヶ崎さんって、意外と話しやすいのかも
やがて、いくつものジョッキが空になり、焼き鳥の串が減っていく。東ヶ崎はWensやVTuber、作曲について熱く語った。アオイは頷きながら、彼女の言葉を一つ一つ記憶に刻んだ。
そして居酒屋を出ると、夜風が心地よく頬を撫でた。東ヶ崎は少し酔った様子で、肩を揺らしながら歩く。
「あとで音源送っとくから」
「お願いします!」
「今回の新曲、わたしもマリ姉もいつも以上に気合い入れたから、死ぬ気で練習しろよ」
東ヶ崎の声には、冗談めかした厳しさが込められていた。アオイは背筋を伸ばし、気合いを込めて答えた。
「イエッサー!」
東ヶ崎は振り返り、歯を思いっきり見せて無邪気な笑顔を浮かべた。その笑顔は、普段のクールな印象を覆すほど純粋だった。
「よろしい」
彼女は満足げに頷き、夜の街に消えていった。アオイは鍵を握りしめ、胸に熱いものが広がるのを感じた。
***
翌日、アオイは早速練習スタジオに向かった。アオイがドアを開けると、ミドリが立っていた。
「練習に付き合ってもらっちゃって、すいません」
ミドリは軽く手を振って、柔らかい笑顔を見せた。
「全然です、わたし暇だったので。でも、わたしが表見さんに歌でアドバイスできることなんてありますかね……」
彼女の声には控えめな不安が滲んでいた。アオイはカバンを下ろしながら、明るく答えた。
「客観的な意見が聞きたくて。気になる点があったらビシバシ言ってください!」
ミドリはくすっと笑い、頷いた。アオイは早速練習を始めた。送られてきた音源を流し、歌い出す。新曲はクロエの予告通り、アップテンポで複雑なメロディラインが特徴的だった。特にラップパートは、言葉をリズムに載せるのが難しく、アオイは何度もつまずいた。
ミドリは真剣な表情でアオイの歌を聴き、時折メモを取っていた。一曲が終わると、彼女は慎重に言葉を選びながら指摘を始めた。
「表見さん、全体的にリズム感はいいんですけど、ラップの部分で少し言葉が詰まってる気がします。もっと息を吐くタイミングを意識すると、滑らかに聞こえるかも」
アオイは頷き、ミドリのアドバイスを頭に叩き込んだ。彼女の指摘は的確で、特に表現の細かいニュアンスについてのコメントは、アオイにとって新鮮だった。
「あと、サビの感情が少し控えめかなって。もっと胸の奥から声を出すイメージで歌ってみたらどうですか?」
「なるほど……やってみます!」
アオイはミドリの言葉を頼りに、何度も歌い直した。ラップパートでは、ミドリが手拍子でリズムを刻んでくれることもあった。彼女のサポートのおかげで、アオイは少しずつコツを掴み始めた。歌いながら、ミドリの真剣な眼差しに励まされるのを感じていた。
数時間後、アオイは汗だくで休憩に入った。ミドリがペットボトルの水をアオイに手渡す。
「ありがとうございます」
アオイは水を一口飲み、深く息を吐くと、ミドリが隣に座り、柔らかい笑みを浮かべた。
「いつにもなく気合い入ってますね」
「東ヶ崎さんと北大路先生の力作らしいんで、俺もそれに応えないと」
アオイの言葉に、ミドリは少し目を丸くして、ぽつりと呟いた。
「わたし、表見さんのそういうところ好きです」
一瞬、スタジオに静寂が落ちた。アオイは驚いてミドリを見た。彼女は自分の言葉に気づいたのか、顔を真っ赤にして慌てて手を振った。
「わっ、わたしでよければいくらでもお付き合いしますからね!」
ミドリは誤魔化すように声を張ったが、その声はどこか震えていた。アオイも動揺を隠せず、頬が熱くなるのを感じた。
「たっ……頼もしいです」
ぎこちない笑顔で答えるアオイに、ミドリは照れくさそうに目を逸らした。二人は気まずい空気を振り払うように、すぐに練習を再開した。夜までみっちり歌い込み、アオイの歌声は徐々に洗練されていく。
それから数日間、アオイはミドリに付き合ってもらいながら、スタジオでの練習を続けた。ミドリの的確なアドバイスと、彼女の温かい励ましが、アオイの歌に深みを加えていった。ラップパートも、最初はぎこちなかった言葉の流れが、徐々にリズムに乗るようになっていた。
***
そしてレコーディング当日、アオイは緊張と期待を胸にスタジオに足を踏み入れた。そこには西園寺と東ヶ崎が待っていた。西園寺はいつものようにゆるい笑顔を浮かべ、軽い調子で声をかけてきた。
「いや〜、久しぶりのレコーディングだね〜」
東ヶ崎は腕を組み、鋭い目でアオイを見据えた。
「ちゃんと練習してきたでしょうね」
アオイは胸を張り、自信を込めて答えた。
「ばっちりです!」
「ならいいわ」
東ヶ崎の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。アオイはふと、北大路の不在に気づき、尋ねた。
「北大路先生は来てないんですね」
「マリっぺは用事があるみたいよ〜」
西園寺が肩をすくめて答えると、アオイは少し残念そうに呟いた。
「北大路先生にも聴いてもらいたかった」
「いいもの作って、マリっぺを驚かせてやろうよ!」
西園寺の明るい声に、アオイは力強く頷いた。
「はい!」
録音ブースに入ると、アオイはヘッドホンを装着し、深呼吸して気持ちを整えた。ミキサーの向こうで、東ヶ崎が真剣な眼差しを向けている。西園寺はリラックスした笑顔で親指を立てた。アオイは頬を軽く叩き、気合いを入れる。
――練習の成果、見せてやる!
アオイの瞳に、静かな炎が宿った。
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