第61話『小さな約束は未だ!?』
アオイは息を切らせながら事務所へと急いだ。朝の街はまだ眠りから覚めきっておらず、静寂の中を彼の足音だけが鋭く響き渡る。アオイは事務所に着くと、ドアを勢いよく押し開けた。
室内では、西園寺がソファに腰を下ろし、コーヒーカップを手に穏やかにくつろいでいた。アオイが汗にまみれて飛び込んでくると、西園寺は目を細めて柔らかく笑った。
「お待たせしました!」
アオイの額には汗が滲み、走ってきたせいでYシャツが背中にべったりと張り付いている。西園寺はその姿を一瞥し、くすりと笑みを深めた。
「そんなに慌てなくてもいいのに。汗だくだよ、表見くん」
「それより、ミカンちゃんのことなんですけど……」
アオイが息を整えながら切り出すと、西園寺はカップをテーブルに置き、軽く肩をすくめた。
「僕的には別に大したことじゃないんだけどね」
「でも、本人は知られたくなかったみたいです。琥珀リリカの知名度を使いたくないって」
ミカンの言葉が脳裏に蘇り、アオイが懸命に訴えると、西園寺は少し驚いたように目を丸くした。
「まぁ、チャンネル登録者数170万人だからねぇ。それに、観た? ミカンちゃんのフェスでのパフォーマンス」
「それはまだ観てないです」
「いやー、凄かったよ。本人にはまだまだ知名度ないはずなのに、昨日のフェス一発で、琥珀リリカってバレるまでの短い間でも騒がれてたらしいからね」
「そっ、そうなんですね……」
アオイが驚きの声を漏らすと、西園寺はどこか誇らしげに笑った。
「スカウトした身としては鼻が高いよ。ほら、これがその映像」
西園寺がスマホを取り出し、ミカンのフェスでの映像を再生した。アオイは画面に引き込まれるように目を凝らす。野外ステージに立つミカンは、いつも以上に力強く、かつ柔らかな歌声を響かせていた。集まった観客の数は多く、昨日のイベントに引けを取らない熱気が漂っている。彼女の顔がアップになると、目に光る涙が映し出され、歌に全てを込めているのが痛いほど伝わってきた。アオイは息を呑み、言葉を失った。
「ほんと、歌が好きなんだろうね」
西園寺が静かに呟くと、アオイは我に返った。
「でもこれで、ミカンちゃんがVTuber辞めるって言い出したらどうするんですか?」
不安が抑えきれず口をついて出ると、西園寺は穏やかに答えた。
「それは彼女が決めればいいことだよ。僕はミカンちゃんがどんな選択をしても、それを尊重するさ。キミもそうじゃない?」
その言葉には、どこか南野代表を思わせる深みがあった。
「もちろんそうですけど……」
「とりあえず、彼女が来るのを待とう」
西園寺がにっこりと笑い、アオイも小さく頷いた。
それから10分ほど経った頃、事務所のドアが勢いよく開いた。
バタンッ!
ミカンが息を切らせて飛び込んできた。走ってきたのだろう、肩が激しく上下し、頬が紅潮している。
「すっ、すいません遅れました!」
「大丈夫だよ。とりあえずソファ座って、飲み物でも飲んで落ち着いて」
西園寺が優しく声をかけると、ミカンはソファに腰を下ろした。
「ありがとう、ございます」
まだ息が整わず、ミカンがハァハァと喘ぐ。西園寺は笑いながら言った。
「ミカンちゃんにしても、表見くんにしても、そんな慌てて走ってこなくてもいいのに。二人のそういうとこ、ほんと似てるよね〜」
「なっ! からかわないでくださいよ!」
アオイは顔が熱くなり、つい声を荒げた。ミカンも頬を染め、膝の上で手をモジモジさせている。
「表見さん、そんなに慌てて来てくれたんですね……」
ミカンが小さな声で呟くと、アオイは一瞬言葉に詰まった。
「しっ、心配だったから……」
公園で聞いた彼女の言葉――「女として見てくれないんですか?」――が脳裏をよぎり、アオイの顔がさらに熱くなった。二人は顔を見合わせ、気まずい空気が漂う。
その時、西園寺が手を叩いて割って入った。
「僕もいるんだけど〜」
「「すっ、すいません!」」
アオイとミカンの声が重なり、西園寺が吹き出した。
「プッ! とっ、とりあえず、ミカンちゃんは今回のことどう思ってるの?」
西園寺が笑いを抑えながら本題を切り出すと、ミカンの表情が曇った。
「正直ショックです……。わたしはわたしの力で頑張りたかったので……」
アオイは心配そうに彼女を見つめた。ミカンが続ける。
「せっかく野外フェスにも参加できて、これから三浦ミカンとしても頑張ろうと思ってたのに……」
その声が震え、瞳に迷いが浮かぶ。
「正直……どうしようか迷ってます……」
ミカンの言葉に、アオイはいてもたってもいられなくなった。
「VTuberを辞めようとか思ってるの?」
思わず声を漏らすと、ミカンは目を逸らした。西園寺が穏やかに口を挟んだ。
「少し考える時間を設けなよ。どんな選択をしても、ミカンちゃんの決断を尊重するからさ」
ミカンは唇を噛み、俯いた。西園寺が柔らかく続けた。
「ただ、琥珀リリカだって、キミが積み上げてきた努力の結晶だよ」
その言葉に、ミカンの目に涙が溢れた。
「はい……ありがとうございます」
小さく呟き、彼女は目を拭った。その日はそこで解散となり、アオイはミカンの背中を見送りながら、複雑な思いを抱えた。
***
数日後、アオイのスマホにミカンからのメッセージが届いた。
『路上ライブ付き合ってください』
彼は即座に了承し、約束の場所へと向かった。駅前の西口に着くと、ミカンはすでにギターを手に準備を整えていた。彼女はアオイに気づき、明るい笑顔を見せた。
「来てくれてありがとうございます!」
ミカンがギターを弾き始め、透き通った歌声が辺りに響き渡った。たちまち人が集まり始め、前よりも明らかに観客の数が多い。彼女の歌に引き寄せられた人々が次々と足を止めていく。アオイは少し離れた場所からその様子を見つめていたが、ミカンがふと振り返り、彼に視線を向けた。
「表見さん、一緒に歌いませんか?」
「はぁ……言われると思ったよ」
アオイは苦笑いを浮かべながら、彼女の隣に立った。
「結構古いんだけど、風間ソウタの『小さな約束』って知ってるかな?」
彼がそう言うと、ミカンは一瞬固まった。
「どうしたの?」
「なっ、なんでもないです! 『小さな約束』知ってます!」
ミカンが慌てた様子で返事をした。アオイは一瞬疑問に思うも、彼女がギターを弾き始めると、そのメロディーに合わせて口ずさみ始めた。この曲は、かつてアオイが夢中で聴いたフォークシンガーの名曲だった。二人の声が重なり合い、ミカンの優しい歌声がアオイの少し掠れた声と混じり合う。彼女の声には、以前も感じた懐かしい響きがあった。アオイは歌いながら彼女の横顔を見た。ミカンがこちらを振り返り、柔らかな微笑みを返してきた。
観客はさらに増え、通りが人で埋まり始めた。拍手が鳴り響き、二人の歌声に合わせて手拍子が加わる。だが、人だかりが大きくなりすぎたせいか、やがて制服姿の警察官が近づいてきた。
「すみません、人通りが多くて交通の妨げになってるので、ここで終わりにしてください」
二人は慌てて演奏を止め、観客に頭を下げながら機材を片付け始めた。
「ごめんなさい、またどこかで!」
ミカンが呼びかけると、観客は拍手を送りつつ、少し名残惜しそうに散っていった。アオイはギターケースを手に持ち、ミカンと一緒に駅へと急いだ。
***
帰宅したアオイは、ソファに体を沈めた。目を閉じると、ぼんやりとした記憶が浮かんでくる。いつのことだったか、誰かと並んで歌っていた気がした。小さな声が隣にあって、温かくて、どこか懐かしい響きを持っていた。でも、その姿は霞がかかったように曖昧で、掴もうとすると指の隙間からこぼれ落ちていく。アオイは眉を寄せたが、輪郭の定まらない記憶はやがて溶けるように消え、意識は静かに眠りへと沈んでいった。
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また『30歳無職だった俺、いきなり女性VTuberになる。』キャラクターガイドブックの投稿も始めました。
最新話までのネタバレを含む可能性があるので、閲覧の際はご注意ください。
短編集『成長』シリーズも、不定期に投稿しています。
どれも短い物語ですが、成長の大切さや本当の強さとは何かを考えながら、心を込めて書きました。
ぜひ読んでいただけると嬉しいです。




