第13話『師匠になりました!?』
軽く息をつき、目の前のコガネを見た。彼女は相変わらずやる気に満ちた表情を浮かべている。
「よし、じゃあまずは基本からやってみようか」
アオイはスマホを取り出し、ピアノアプリを開く。画面に映し出された鍵盤を軽くタップすると、澄んだ『ド』の音が響いた。
「とりあえず、ドレミファソラシドの音を流すから、それに合わせて声を出してみて」
「なるほどなるほど! やってみるよ!」
コガネは意気揚々と息を吸い込むと、アオイが鳴らす音に合わせて声を出した。しかし、予想通りその声は不安定で、音がぶれてしまっている。
――うん……やっぱり苦労しそうだな
彼女は音程を合わせることが苦手そうだった。それでも、本人にやる気があるのは救いだ。アオイは苦笑しながらも「大丈夫、焦らなくていいからね」と声をかけた。
最初は戸惑い気味だったコガネも、何度か繰り返すウチに徐々に音の高さを意識し始め、次第に正しい音を当てられるようになってきた。その変化を感じ取り、彼女はパッと顔を輝かせる。
「お、なんか掴めてきたかも!」
「うん、いい感じ。飲み込み早いね」
「でしょー!」
本人が自称していた通り、確かに覚えは早かった。最初に比べれば、明らかに正確な音程を取れるようになっていた。
アオイはスマホを置き、ひとまず背伸びした。
「そろそろ休憩にしようか」
「えー! もウチょっとやりたい!」
「無理しすぎると喉を痛めるよ。トレーニングは継続することが大事だから、無理せず少しずつやっていこう」
そうアオイが諭すと、コガネは少し口を尖らせながら頷いた。よほど楽しくなってきたのだろうが、喉の酷使は禁物だ。
アオイがペットボトルの水を手に取り、一口飲むと、彼女が興味深げな表情でじっとこちらを見つめてきた。
「ねえねえ、表見さんも歌ってみせてよ!」
「え?」
「やっぱり先生のお手本があると、わかりやすいじゃん!」
不意の提案にアオイは一瞬戸惑った。少し前の自分だったら断っていただろう。しかし、紅音ウララとして活動を始めてから、以前よりも歌うことに前向きになれていた。
少し迷った後「じゃあ、少しだけ」と前置きし、かつてフォークシンガー時代に憧れていたアーティストの曲を口ずさんだ。
優しく、けれど芯のある歌声が部屋に響いた。コガネは目を輝かせながら聴き入っているようだ。そして歌い終わると興奮気味に声を上げた。
「曲調はちょっと古臭い感じもするけど、表見さんの歌声ってかっこいいね! ロックとかの方が合いそう!」
「えっ、ロック……!?」
思いもよらない指摘に、アオイはドキッとした。
確かに、フォークをやっていた頃よりも、ウララとして歌っている今の方が、声が自然に出せている気がしていた。
そんなことを考えていると、彼女が少し恥ずかしそうに口を開いた。
「実はさ……ウチ高い声が上手く出せないんだよね」
「そうなの? じゃあ、試しに高音の練習をしてみよっか」
アオイはそう言うと姿勢を正し、練習を再開した。
「高い声を出すときは、頭の上と首の後ろの間くらいに声を引っ張る感じかな。例えば――」
そう言って、スッと高い声で軽く歌った。
「えっ!?」
コガネの目が驚きで大きく見開かれる。
「表見さん、女の人みたいに高い声が出せるんだね!」
「えっ、ああ、まっ、まあね!」
アオイは内心ヒヤリとしたが、声質は地声を保っているし、流石にバレることはないはずだと思った。とはいえ、あまり無防備にはなれない。
「すごーい! ウチもそんな風に歌いたい!」
「できるようになるまで、付き合うよ」
コガネの眼差しに、憧れの色が感じられるように見えた。その純粋そうな目に、アオイは少し嬉しくなった。そして二人は練習を続けた。
***
3時間ほど経つと、アオイはコガネの頑張りに感心し、少しずつ彼女の声が安定してきているのを感じていた。しかし、やはり高い声は苦手なようで、コガネは悔しそうに唇を噛みしめている。
「くぅー! なんで高い声だけこんなに難しいの!?」
「高音は一朝一夕では出せないよ。焦らなくて大丈夫だからね」と声をかけ、スマホを取り出すとボイストレーニングの動画を見せた。
「家でもできる練習法があるから、音階に沿って声を出す練習と並行してやってみて」
コガネはその動画に見入るようにしながら「そっか……よーし、やってみる!」と元気よく答えた。
「次、事務所に来るのはいつ?」
「5日後だよ!」
「じゃあ、そのとき練習の成果を見せてよ」
アオイは軽く頷きながら、次回のレッスンに期待を込めて言った。
すると、彼女は満面の笑みを浮かべて、ピンと指を立てて言った。
「任せてよ、師匠!」
「……師匠!?」
「だって、ウチの歌の先生だから、師匠!」
その言葉に、アオイは少し照れくさい気持ちを覚えながらも、悪い気はしなかった。
「じゃあまたね、師匠!」
コガネは勢いよく事務所のドアを開け、軽やかな足取りで外に出て行った。その姿は、今日の練習がとても有意義だったことを物語っていた。
***
アオイは帰宅してシャワーを浴びた後、部屋でリラックスしていた。
「そういえば、教えてもらったコガネさ……山吹セツナのチャンネルでも覗いてみるか……」
そう思い立つと早速パソコンを開く。すると、ちょうど彼女がライブ配信をしていた。画面に映し出されたVTuber山吹セツナは、ほぼコガネ本人の見た目をしていた。
◆◆◆
「そういえば今日、ウチにボイストレーニングの先生ができました! みんなが下手って言うから、絶対に上手くなって見返してやるからなー!」
セツナが視聴者に向けて決意表明をすると、コメント欄には辛辣な言葉が流れてきた。
▼「セツナちゃんは下手のままでいいよ」
▼「セツナが上手くなれるわけない」
▼「僕たちファンの耳を労りなさい」
そのコメントに反応するかのように、セツナの眉がピクリと動く。
「なんだとおおぉおおお! そんなに聴きたいなら聴かせてやるうう!」
そう叫ぶと、彼女は勢いよく歌い始めた。
◆◆◆
「ははは……先は長いかも……」
相変わらずの酷い歌声にアオイは苦笑しつつ、画面の向こうで必死に歌うセツナをじっと見つめていた。
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