第1話 異変
開発室のモニターに映る膨大なコード群を前に、東雲拓真は軽く眉をひそめた。新しいプロトコルの最終段階に差し掛かり、細かいバグを潰す作業が続いている。思った以上に進捗が遅れているが、ここで止まるわけにはいかない。
「宮下、その部分の通信プロトコル、まだ安定してないぞ。パケットが途中で落ちてる。MTUの設定はどうなってる?」
宮下、チーム内でも若手のエンジニアが、あたふたと画面に目を走らせた。彼は有能ではあるが、まだ経験不足でミスも多い。そんな様子に東雲は心の中でため息をつきつつ、口元には微笑みを浮かべた。焦ると余計にミスを連発するのが、エンジニアという生き物だ。
「す、すみません…MTUの設定がまだ完全に把握できてなくて…。もう少し時間が必要かもしれません。」
「いいから落ち着け。今は問題の把握が先だ。」
東雲が淡々と指示を出す横で、サポートに入っていた有里澄が彼に微笑を投げかけた。彼女はこのプロジェクトでも最も信頼できるメンバーの一人だ。デバッグや仕様変更に関して、彼女の支援がなければ今頃プロジェクトはもっと遅れていただろう。
「拓真さん、この部分のログデータ、一応チェックしておきました。バグが出たタイミング、ここです。」
有里澄は手際よく資料を差し出し、東雲はそれを受け取った。彼女の効率の良さには、いつも助けられている。感謝の言葉を伝えつつ、ログを確認する。
「助かる。…やっぱりここか。ちょっと調整してみる。」
今回、東雲が開発しているのは、ITとOTを結びつける新しいプロトコルだ。ITは情報システム、OTは工場の機械制御を扱うが、これまで両者の連携は難しかった。しかし、このプロトコルが完成すれば、工場の機械を遠隔で管理でき、生産性が飛躍的に向上する。
「宮下、これで工場内のセンサーもITシステムから制御できるようになる。今まで分断されていたITとOTの壁を越えるのが、このプロトコルの目的だ。」
宮下は頷きつつも、まだ不安そうな表情を浮かべていた。
「それはわかってるんですが…現場との連携がうまくいくかどうか…まだ心配で…。」
「確かに難しいが、だからこそ我々がいる。この新プロトコルが完成すれば、工場や製造現場だけでなく、他の産業分野にも応用できる。焦らずに進めよう。」
その時、東雲の背後から鋭い声が飛んできた。
「進捗、どうなっている?」
鷹宮夜斗だ。彼はPMOとして、このプロジェクトの進行状況を管理しているが、最近、何かにつけて監視が厳しくなってきた気がする。東雲がプロトコルの開発に没頭していると、決まって彼の厳しい指摘が飛んでくる。
鷹宮 夜斗は、東雲に短く指示を飛ばしてその場を離れながらも、心の中で燻っている感情をどうにか抑え込もうとしていた。焦りと苛立ち。それが最近、彼の胸の中でどんどん膨らんでいた。
(また、あいつか…。)
上層部の会議で、最近よく耳にするのは「東雲のプロトコルは素晴らしい」という言葉ばかりだ。彼自身もPMOとして、このプロジェクトの進行を管理しているが、どうしても彼にスポットライトが当たることに不満を感じる。上司や同僚たちが東雲を称賛するたびに、鷹宮の心は少しずつささくれ立っていく。
以前は、東雲の実力を認めていた。いや、今でもそれは認めざるを得ない。彼の技術力は確かだし、プログラムの最適化やバグ修正の手際も素晴らしい。しかし、それを認めることが、どこかで自分を追い詰めるような気がしていた。
(俺だって、こんなに頑張ってるのに。)
だが、周りはどうだ?最近は「東雲を見習え」と言われることが増えた。まるで、彼を基準に自分を評価しているかのように。それがたまらなく腹立たしい。彼と自分は同じプロジェクトに関わっているが、なぜ東雲だけが持て囃され、俺はその影に隠れてしまうのか。
さらに腹立たしいのは、東雲自身の態度だ。東雲は冷静で落ち着いていて、何事にも動じないように見える。だが、最近の彼の言葉の一つ一つが、鷹宮にとっては「上から目線」に聞こえることが多くなった。
「鷹宮、こっちの心配はしなくていい。俺は大丈夫だ。」
その言葉が、特にカチンときた。まるで、自分が無能で心配ばかりしているような言い方じゃないか。あいつは自分を優れた人間だと確信していて、それを周りにも見せつけているようにしか見えない。
(ふざけるな…。)
鷹宮は握りしめた拳を解いた。東雲が今、プロジェクトの中心で輝いていることは事実だ。しかし、それが永遠に続くわけではない。鷹宮は自分の実力に自信を持っている。だが、それがどれほど上司に認められているかは、最近不安になることが多い。
(あいつに負けるわけにはいかない…。俺が、このプロジェクトを本当に成功させるんだ。)
鷹宮は自分を奮い立たせるように心の中でそう呟いた。しかし、その裏には、どこかで感じている焦りと苛立ちが渦巻いていた。それを打ち消すために、彼は前に進むしかない。東雲の後ろではなく、前に立つために。
鷹宮 夜斗は、パソコンの前で黙り込んでいた。手元には、数日前に届いた一通のメール。差出人はレヴナント・システムズ。通称レヴシスというその企業は、最先端の技術開発を行う企業であり、特に仮想現実や脳科学に関するプロジェクトを次々と成功させている、いわば技術界のトップランナーだ。しかし、その裏には非人道的な噂もつきまとっていた。仮想世界と現実を結びつけるような技術を開発している、という話を聞いたとき、最初は都市伝説か何かだと思っていた。
だが、そのレヴシスからオファーが来たのだ。しかも、東雲 拓真を次にして。
(俺は、二番目の選択肢か…。)
その事実が、鷹宮を苛立たせていた。レヴシスから声がかかったこと自体は、悪い話ではない。むしろ、彼にとっては大きなチャンスだった。だが、それが「東雲の次」であるという事実が、どうしても胸の中に刺さった棘のように引っかかっている。
レヴシスが東雲に最初に声をかけたことは、風の噂で耳にしていた。東雲はあの話を「非人道的だ」と言ってあっさり断ったらしい。意識転送だの、異世界への転送だの、正直常識外れの技術ばかりだ。そんなことを現実にやろうとしている企業に関わるのは、リスクが大きいこともわかる。
(けど、それでも俺は…)
鷹宮は拳をぎゅっと握り締めた。東雲は断った。だが、自分は違う。これはチャンスだ。レヴシスの技術は確かに先進的で、その影響力は計り知れない。自分がここで手を引くわけにはいかない。だが、それでも…。
「どうして、俺が二番目なんだ?」
鷹宮の声が、静かな開発室に響く。
東雲がいなければ、レヴシスは最初に自分を選んでいただろうか?答えは明白だ。東雲が先に選ばれ、彼が断ったから次に鷹宮に白羽の矢が立った。それがわかっているからこそ、どうしても屈辱を感じずにはいられない。
(あいつの次にされたことが、どうしても許せない…。だが、それを乗り越えるためには、このチャンスを逃すわけにはいかない。)
これまでずっと、東雲の影で仕事をしてきた。自分も優秀であると信じていたが、いつも周りから見れば「東雲のサポート役」だった。レヴシスのオファーもその延長に過ぎないのだろうか。東雲が断ったから「仕方なく鷹宮」という扱いなのかもしれない。
(でも、それなら俺が証明してやる。東雲にできなかったことを、俺がやってみせる。)
鷹宮は自分にそう言い聞かせた。たとえ二番目の選択肢だとしても、ここからが本番だ。自分がレヴシスと手を組めば、東雲が断った計画を実行できる立場になる。そして、今度は自分が主役になる番だ。彼に負けるわけにはいかない。
鷹宮はメールの内容を再び確認した。レヴシスのプロジェクトに参加することで、今までとは異なる道が開ける。もちろん、その裏にはリスクがある。しかし、ここで退くわけにはいかない。
(俺は…レヴシスで、東雲を超えてみせる。)
彼は固く決意すると、メールに返信するためキーボードに手を伸ばした。レヴシスとの接触が、彼の人生を大きく変えることをまだ知らずに。